かながわブラインドスキークラブ 35周年記念誌 声のきずな    <表紙裏面> 《番外編@》 << 35周年記念事業 制作物 >> ビブス パートナー用(前面・背面)・ブラインド用(前面・背面)    Design by Makoto Kurihara Tシャツ グレー(背面・胸元)・赤(背面・胸元)    Design by Makoto Kurihara Tシャツ説明: なぜフクロウなのか…黒い体に目がくっきりとこちらを見ています。 夜行性のフクロウが月明りだけの夜の暗闇の中、スキーヤーを誘導しています。 フクロウの両眼が光っているのはその意味です。 このフクロウに負けないように しっかりと誘導してゆきたいと思うばかりです。 表紙イラスト(Illustration by Miyuki Tanno) 説明: タイトルの「声のきずな」という点字を、白い雪で表しました。 空に舞っている雪の中に、点字で「ゆき」「好き」「スキー」が隠れています。 仲間たちの空間は、あたたかい声に包まれていて、みんな笑顔になる。 愛が溢れているイメージを描きました。 <表紙裏面終わり> <目次> (テキスト版: 目次行末の()内の文字で文中を検索すると該当項目を探すことができます。) 『35周年記念誌 声のきずな』 かながわブラインドスキークラブ 35周年記念誌発行にあたって 会長 矢部健三 (!1.1) 35周年に寄せて 外部団体からの寄稿(敬称略) (!2.0)  神奈川県ライトセンター調整監(スポーツ担当)工藤孝志 (!2.1)  TABS 栗田誠 (!2.2)  シーハイル 代表 伊藤聡子 (!2.3)  だいすきークラブ 会長 石川絹代 (!2.4)  富山三つ星山の会事務局長 桐井英志 (!2.5)  JRPS 大沢郁恵 (!2.6)  ロッジかぶらぎ  鏑木文明、とし子、直洋 (!2.7)  岩原スキー場ホテルアルパイン支配人 横田英隆 (!2.8) 藤田功三さん講演会及び質疑応答 (!3.0) レジェンドたちのLINE座談会 (!4.0) クラブの歩み(年表) (!5.0) 35周年に寄せて(OBおよび白崎さん) (!6.0)  白崎正彦 (!6.1)  渡辺文治 (!6.2)  井上誠剛 (!6.3) 35周年にあたって(クラブ員から) (!7.0)  衣笠健一 (!7.1)  有賀美由紀 (!7.2)  串田直樹 (!7.3)  対馬まり (!7.4)  大橋由昌 (!7.5)  岩崎宗治 (!7.6)  渋谷清二 (!7.7)  外山尚 (!7.8)  高野和男 (!7.9) 夢を語る(クラブ員から) (!8.0)  小平幸絵 (!8.1)  井上浩一 (!8.2)  栗原美穂 (!8.3)  星有沙 (!8.4)  青木伸也 (!8.5) 会則 (!9.0) 編集後記 (!10.0) 番外編 @ 35周年記念制作物 (表紙裏、裏表紙) A 中八旅館の片隅で (!11.0) 《35周年記念誌発行にあたって》 !1.1 「35周年記念誌発行にあたって」    かながわブラインドスキークラブ会長 矢部健三  1985年8月18日に「神奈川県視覚障害者スキー協会」として産声を上げた私たちのクラブも、2020年に結成35周年を迎えました。これまで活動を継続できたのは、スキーをしたい!というブラインドの思いと、一緒に滑ろうじゃないか!というパートナーの熱意の賜物です。この場を借りてこれまでクラブを支えてくださった皆様に心より感謝申し上げます。 今回、10周年、30周年に続き記念誌「声のきずな」を発行いたします。クラブ結成時からの中心メンバーのお一人、藤田功三さんの講演録を軸に、座談会の模様やクラブを支えてくださった方々の言葉をまとめました。今後の活動の道しるべとなれば幸いです。 30周年(2015〜16シーズン)以降のクラブの歩みを簡単に振り返りたいと思います。 毎年2回のスキーツアー開催、春・夏・秋などオフシーズンのイベント開催を継続した他、2016年度にはクラブ宣伝用のチラシと名刺を作成、2017年度にはスキー誘導法をわかりやすくまとめた「ブラインドスキーガイドライン」を作成しました。また、2017年度からはパートナーを対象としたブラインドスキー誘導法の雪上研修会を毎年開催しています。2018年度からはブラインドスキーサミット2015にご協力いただいたTABSと両団体のスキーツアー情報をそれぞれの団体メンバーに紹介するなど連携強化も図っています。そして、2019年度にはブラインドスキー紹介用のプロモーションビデオを作成し、YouTubeで公開しました。 さあ、35周年を迎えたシーズンはどんなシーズンに?と期待に胸を膨らませていましたが、昨春来の新型コロナウイルスのパンデミックによりクラブ結成後初めてスキーツアーを一度も開催できない、悔しいシーズンとなってしまいました。その代わりと言っては語弊があるかもしれませんが、この35周年記念誌の編集に力を注ぎました。また、クラブビブスの新調、Tシャツの作成、チラシ・名刺の更新なども35周年記念事業として実施しました。 この原稿を書くにあたり、クラブ結成10周年に作成した記念誌「声のきずな」を読み返してみました。個人的な話で恐縮ですが、その第六部「夢を語る」の中で当時まだ20代だった私も夢について原稿を書かせていただいていました。その夢というのが、SAJ検定の1級合格!育児などでのブランクが10年あったとはいえあれから四半世紀。いまだに夢はかなえられていません。果たしてこのまま夢で終わってしまうのか…。なんとか実現させたいものです。 40年、50年と私たちのクラブが活動を継続し、一人でも多くのブラインドが1回でも多くスキーの楽しさを味わえるよう、今後とも皆様のご支援をいただきますようお願い申し上げます。 最後になりましたが、この記念誌は会員有志の編集委員会の努力により発行できる運びとなりました。また、多くの会員や関係者の皆様に原稿執筆などご協力をいただきました。ここに厚くお礼申し上げます。                   2021年5月吉日 !2.0 《35周年に寄せて》 外部団体よりご寄稿頂きました(敬称略) !2.1 「かながわブラインドスキークラブ創立35周年に寄せて」    神奈川県ライトセンター調整監(スポーツ担当)工藤孝志  かながわブラインドスキークラブ創立35周年おめでとうございます。  私自身はスキークラブとの関わりはあまりありませんが、スキークラブ創立のきっかけとなった、40年近く前に始まった神奈川県視覚障害援助赤十字奉仕団主催の、視覚障害者のためのスキー(ブラインドスキーアルペン)に当初から参加しており、当時参加されていた皆さんが起ち上げたスキークラブが35周年を迎えられたことを、心よりお喜び申し上げます。  初めて参加した時代は、ブラインドスキーが始まったばかりで、今ではあたりまえになっている、滑る方向を指示して誘導する方法も、当初は曲がる方向を指示するのか、荷重する足を指示するのかを真剣に悩み、スキーの指導者がアイマスクをして誘導の体験をしてみたりなど、試行錯誤を重ねていた頃が懐かしくも楽しい思い出となっています。  現在ライトセンターでスポーツ振興の担当をしていますが、ブラインドスキーでは、視覚障害者のスポーツ参加について多くのことを学ばせていただきました。  見えていた時代にスキーをやっていたけれど、見えなくなってもうスキーはできないと思っていた方が、視覚障害者のために作られたものではないスポーツをもう一度やってみたいと、ブラインドスキーに参加され、パートナーで参加した息子さんと一緒に滑り終えた最終日に「来年も是非また来たい」という言葉を糧に現在も仕事をしています。 また、スキーのボランティアと聞くと、自由に滑れないから大変じゃないのと言う声を聞きますが、1人で滑る以上にお互いを信頼して一緒に滑る楽しさはブラインドスキーでなければ体験できません。 ブラインドスキーのパートナーとしてスキーを滑るためには、一定のスキー技術が必要です。スキー技術を上げるためにはスキーに行った回数だといいますが、信頼関係のさらなる構築をモチベーションにすれば、回数ではなくスキー技術も上がるのではないでしょうか。  最後になりますが、かながわブラインドスキークラブの益々の発展とパートナーのボランティアが増えることを祈念して筆をおきたいと思います。 !2.2 T.A.B.S.(Tokyo Association for Blind Skiers) 栗田誠  かながわブラインドスキークラブの皆さん、設立35周年おめでとうございます。 TABSの栗田です。 30周年の記念イベントからKBSCとTABSのお付き合いが始まりましたが、それからもう5年が経つのですね。その間、両クラブの会員がお互いのツアーに参加し、交流したり、コロナ禍の中では、オンラインで情報交換もさせていただき、ますますご縁が深まっていることを感じています。  私自身も2020年1月の岩原ツアーに参加させていただき、楽しい経験をさせていただき、2021年シーズンは両ツアーとも参加させてもらうことを楽しみにしていたのですが、緊急事態宣言の発令によりそれが叶わなくなったことがとても残念です。他クラブへの参加はいつも緊張するものですが、初参加だった昨年の岩原ツアーでは、あっという間に旧知の仲のように皆さんの輪に入れていただき、最初のうちの緊張感をすっかり忘れ、リラックスしてツアーを楽しむことができました。  KBSCとTABSでは、少しずつサポートの仕方やツアーの仕組みに違いはありますが、スキーを思いっきり楽しむという気持ちに変わりはありませんでした。そして、TABSにとってブラインドスキーの先輩クラブであるKBSCから学ぶことも多いと感じた岩原ツアーでした。  日本ではまだまだブラインドスキーの認知度は低く、スキーを始めたいけれどもどうやって始めればいいかが分からないブラインドの方が多いと聞きます。ブラインドスキーの普及のため、KBSCがますます発展し、その歴史をどんどん積み上げていかれ、また両クラブの交流がより深まっていくことを期待しております。 Let’s enjoy BLIND SKI. !2.3 「35周年おめでとうございます」    シー・ハイル代表 伊藤聡子(ふさこ)  シー・ハイルは、1976年から葛飾盲学校で行われていたゆきぐに教室から始まり、その卒業生を中心に、1986年から活動しているスキーサークルです。  5年前、「ブラインドスキーサミット2015」に参加させていただきました。5つの団体それぞれの状況が分かり、とても良い情報交換の場となりました。私たちは視覚障害者とガイドが1対1で滑っていますが、神奈川のみなさんはガイドが2人ついていて、さらに新人ガイドの講習時間がしっかり設けられているなど、普段横の繋がりがないので大変参考になるお話が聞けました。ガイド不足、高齢化など、どの団体も共通の課題を抱えていることも分かりました。 続く懇親会にも参加させていただき、久しぶりの再会を喜び合うみなさんのお声があちこちから聞こえ、和気あいあい、大変和やかで素敵な会でした。 みなさんと、いつか一緒に滑れたらと思います。これからもお互い楽しく続けられるよう応援しております。 !2.4 だいすきークラブ 会長 石川絹代  35周年記念誌の発行おめでとうございます。新型コロナウイルスの感染拡大の止まらない、このような時期に地道に活動を続けておられることに、心より尊敬の念を抱いております。 35年という歳月は大変重いものがあると思います。この間たゆまず視覚障碍者がスキーを楽しめるよう様々な開拓をしてこられました。伴走者を育てること、そしてリフト代の障碍者割引にも取り組んでおられました。  私たちだいすきークラブも、及ばずながら同じ志のもと、ともに活動してまいりました。大変な時代に生きているような気がしますが、皆がまた明るい笑顔で真っ白なゲレンデに立てる日のくることを願ってやみません。 どこのクラブも会員の高齢化が進んでおります。今後は若い視覚障碍者にもスキーの楽しさを伝えることを新たな目標として共に頑張ってゆきたいものです。 !2.5 富山三つ星山の会事務局長 桐井英志  かながわブラインドスキークラブ創立35周年おめでとうございます。貴クラブの素晴らしき伝統に心より敬意を表します。  本会では20年前よりブラインドスキーに取り組んでおりますが初回、手探りの中(まだネットもない頃です)貴クラブ作成ガイドラインを富山県視覚障害者協会に取り寄せていただき大いに参考と致しました。また、貴クラブ創立30周年記念サミットには本会ご招聘をいただき、大変に有意義な情報交換、交流の機会を賜り光栄に存じます。そして今季はコロナ禍の下、開催方針等に関して相談させていただき、貴重なご助言を賜りました。 本会が支援する富山県障害者スポーツ協会スキー教室では今季より障害亢進、聴覚障害等にも対応するアシストバーを製作、競技介助に導入活用して成果を上げております。 貴クラブ今後ますますのご活躍、ご発展を祈念しますとともに末永くご指導、ご鞭撻を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。 !2.6 JRPS(公益社団法人日本網膜色素変性症協会) 大沢郁恵  「え?スキーやってるの?」ほとんど目が見えない私がやってると言って一番驚かれるのが、スキーです。「どうやってるの?怖くないの?」聞いた人は次々と疑問を投げかけてきます。怖くないんですよ。だって、スキーをするとき、私には最高の目があるんですから。  私が所属している網膜色素変性症の患者会、JRPSには、15歳〜35歳の人が参加する、ユース部会があります。私はそこに参加させてもらい、たくさん素晴らしい経験ができました。そのうちの一つが、ブラインドスキーでした。私自身スキーをするのは、15年ぶりくらいで、うまく滑れるかどうか不安な部分はありました。1年に1回、合計4回滑らせてもらいました。最初の1回目は、やはりなかなかうまく滑れず、リフトから降りるのも四苦八苦でした。でも、なんと、私が言うのもなんですが、年々上達し、3回目、4回目の時は、一度も転ぶことなく、リフトもすいすいと降りれるようになりました。それもこれも、ブラインドスキーのパートナーさんの皆さんが優しく、時に厳しく教えてくれたおかげだと思います。  私は盲導犬と生活しています。私の盲導犬は雪が大好きで、代々のパートナーさんは雪ではしゃぐ盲導犬にもお付き合いいただきました。私たちの協会は盲導犬のことを、パートナーと呼びます。雪のないところでは、犬のパートナーが私を導いてくれて、雪の上では、スキーヤーのパートナーが声で私のことを導いてくれます。私のパートナーは、とても温かく楽しく私の目となってくれるのです。だから私は笑顔で答えます「怖くないんですよ。あなたも自分の目を疑ったりしないでしょ?」風を切る。どんなに速く走るより感じる風をパートナーと一緒に感じれる瞬間が、私は最高に大好きです! !2.7 「クラブ創立35周年にあたって」      ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場内 ロッジかぶらぎ  鏑木文明、とし子、直洋  ある年の秋、まだゲレンデでは百合が咲き誇っていた頃、突然3名の方がロッジにいらっしゃいました。「私たちは視覚障害者と一緒にスキーをする団体なんですが、来年の2月、2泊3日お世話になることはできますか」たまたまその日程の期間が空いていたのでその場でOK! その日がかながわブラインドスキークラブさんとの出会いでした。 それまでスペシャルオリンピックス関係の方は見えていたので、あまり不安もなく受け入れました。ただ熱いものを食べていただくのは大丈夫かなど多少の心配はありましたが、そんなのは全くの無用な心配でした。とにかく皆さんよく飲むなぁというのが第一印象でした。 そして視覚障害者の方もパートナーの方も和気あいあいで楽しんでいる様子を見ていると私たちも嬉しくなります。  このお付き合いも聞いたら間もなく20年になるとか…毎年ありがとうございます。 これからも長くお付き合いいただけたら嬉しいです。 勿論個人でも是非お越しください。 この度は、35周年誠におめでとうございます。 かながわブラインドスキークラブの今後のご発展をスタッフ一同お祈りしております !2.8 「かながわブラインドスキークラブ(KBSC)のみなさま」     岩原スキー場ホテルアルパイン支配人 横田英隆  さて、アルパインと皆さんのつながりのキッカケは、一言でいうと「志村さん」です。「すみませーん、ちょっとお聞きしていいですか〜。」とハスキーな声で入ってこられたのです。日に焼けた元気な方だなーというのが第一印象でした。きっと海辺に住んでいるんだろうと想像しながらお話を聞いていると、【縁ですねー】土樽山荘の話が出てきて、料理人の佐々木さんの話がね。それからとんとん拍子にご利用いただくお話が進み、今に至っているんですよね。  クラブのお話を聞いているうちに「素敵な方々だなー、ボランティアというのはこういう方々の事を言うんだな。」とすっかり関心をしてしまいました。いざ 、ご宿泊となった時、ブラインドの皆様の楽しんでいる姿を見てまたまた感心してしまいました。信頼関係が無くてはできない介添え、ましてスキーなんてと思っていたら、スイスイとびっくりでした。みんなとても明るく、前向きでチャレンジ精神の塊で、本当に感動しました。   私はハンディーなんて毛頭無い、と言えるような些細な悩みがありますが、明るく楽しくはげましあい皆さんと一緒にこれからも歩んでいきたいと思っています。 末筆になりますが、KBSC皆様の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。 !3.0 《藤田功三さん講演会及び質疑応答》  クラブ創設者の藤田功三さんより、ご自身とスキー、クラブの誕生、成長の歴史などご講演いただきました。 2019.5.12と2019.12.7の2回に渡った講演会の模様をまとめました。 藤田さんの口調や講演会の雰囲気を感じながらお楽しみください。 清宮:功三さんが30何年前かに「うーーん」って出産してくださってうちのクラブが「おぎゃー」って誕生しました。それからどうやって成長してきたか、私も知らないので功三さんに是非お話を伺いたいなって思いました。で、私がクラブに入ったきっかけは、説明会だったんですけど功三さんの話に感銘を受けて。 藤田:え?あれ? 清宮:こういうクラブでスキーしたいなと思ったのが始まりでした。 藤田:そんないい話したぁ? 清宮:そうなんです。(会場:笑)それを是非多くの方に聞いて頂きたいなと思って、今回この場を作りました。では功三さん、宜しくお願いします。 藤田:はい、わかりました。(会場:拍手)  『雪へのあこがれ』    私、実は小学校時代からすんごい弱視だった。これは多分皆さん知らない事だと思うのでこの辺から話していきたいなぁと思って。昭和26年、小学校5年か6年の秋です。 私、学級委員長をやっていまして、ある日友達二人と共に先生に呼ばれて「ちょっと手伝え」っていう事で放課後先生の手伝いをしたんです。教室の後ろに色々貼り付ける物を作っていたんですが、当時今と違って教室に電気が点くなんてことはありませんでした。夕方だんだん暗くなっていって私は見えなくなってしまいましたが先生と友達二人は仕事をしていました。 自分は見えないのに友達や先生はやっている。僕は目が悪いんだ…と思った時「おい藤田これ」って先生が僕に対して何か渡そうとした。ところが私は先生の手の先がどこにあるのかもわからない。 真っ暗だったんです。その時に自分の目の悪さを自覚しました。先生が「あ、藤田目が悪いのか」と言われたんです。この時が私自身の一番のショックだったんです。  スキークラブの話をしていく前に、私がいかに雪が大好きで、それからスキーにのめり込んでいったというところを知っていただきたいと思います。 とにかく一番に雪が好きだったんです。 生まれは横浜なんですが、横浜も空襲がひどくなってきたという事で、昭和19年5歳の時に静岡県の磐田というところに疎開をしたんです。小学校1年生の頃だったと思います。初めて雪が、牡丹雪が空から降ってきたんです。「うわー!雪だ雪だ!」と言って庭中駆け回っていたのを今でも覚えています。初めて雪を見た嬉しさからでしょう。その時からもう雪に憧れて。というのも、田舎の家の茅葺き屋根にたっぷりと雪が積もってる、そういった絵を絵本で見て、雪が降る所へ行くとこんななんだ!と雪の多さにびっくりして。それも雪に憧れる理由の一つだったんです。  疎開先で小学校3年まで終わらせて、4年の1学期から今の場所に戻って来まして、小学校、中学校、高校と地元で過ごしました。 小学校5年の時に、憧れていた雪が横浜に積もったんです。あの、私しっかり確かめてきました。 私の家の近くに横浜気象台があります。これは外人墓地と港の見える丘公園の間のちょっと小高い所にあるんですが、そこへ電話して聞きました。「えーっと昭和26年か27年頃、横浜にもかなりの雪が積もったんだと思うのだけど、わかりますか?」と言ったら、ちょっと時間はかかりましたけれども「26年2月に25センチ積もってますね」という答えが返ってきました。 この時の雪に僕は初めてびっくりした、そして喜んだ。楽しかったんです。これ今思うとですね、確か二日間雪で学校が休みになったかもしれないんです。それで嬉しくて記憶に残っているのかと思うんですが。 1951年、昭和26年ということは、私は小学校5年です。それから「1953年に35センチ、54年に39センチ横浜に積もっていますね」ということを聞きました。その頃はちょっと雪が多かったんだなぁと思います。だから私は小学校の時に積もった雪を見てびっくりして「ああ横浜もこんなに雪が積もるんだ」と思って、雪の楽しさを雪合戦やなんかで遊んだことで思い出しております。 その時に初めて雪に憧れて、こんな雪が沢山ある雪国に行ってみたいな、という事を感じたんですね。  『中学校〜スキーとの出会い』    ええっと、中学校に入り、1年の冬休みに入る前です。多分横浜市の教育委員会がやっていたと思われるスキーのツアーがあって、越後湯沢か妙高高原に行くというお知らせがあって募集をしていたんです。私は前から雪に憧れて雪国に行きたいと思っていたものですから、是非行きたいという事を親に言いました。そうしましたら親の言い分はこうでした。「雪、スキーは危ないからやめとけ」 「でもぉ行きたいんだぁ」という心の底で親とのいざこざはあったんですが「じゃあ今年は諦めるけど来年は行かせてくれ」という事で妥協して2年生の冬休みに初めてスキーに行ける事になりました。そしてやはり親は湯沢「町」ならいいけど妙高「高原」は危ない!という事で湯沢町に行く事になったんですね。 12月24日か25日の夜、貸し切り列車で11時過ぎいや12時回っていたかもしれませんね、横浜駅を出発したのは。私はいつ雪が出てくるか、もう横浜駅出るとすぐ窓におでこをくっつけて外を見てました。ずーっと見てましたね。ほとんど一睡もしないで見ていたと思います。雪が出てきたのは水上近辺ですよね。初めて雪が見えてきて「わぁすごい雪だ!」。周りは真っ暗ですが街灯の下が真っ白く輪っかになって見えて。  そして着いたのが朝の5時位かな。真っ暗なので僕は側にいる友達につかまってホームから降りて。その日を今でも覚えています。温泉街の中にある「ショウゲツ」という「松に月」という旅館に行ってひと休みしました。そして長靴履き、学生ズボン、上はちょっと厚手のジャンパー、昔我々が小中学校の頃に着ていた紺色のちょっと厚手のジャンパーです。それに野球帽かぶってスキー場へ行きました。歩いて10分〜15分位かな、今は廃止になりました「布場スキー場」です。湯沢高原の下で、日本で初めの頃からやっているスキー場です。そこまでの道路の雪がまぁうず高く積もっていて。あの年は雪が多かったんだろうと思います。  そこで初めてのスキー。あのー初滑りと言ってもですね、貸しスキーを借りて、長靴のまんまやるんですから。昔は「バッケン」という靴を留める金具がありました。「エビガネ」というものでバネで引っ張ってパチンと踵を押さえるやつですよね。長靴の前は抜けないように荒縄で縛り付けて。 上まで板を担いで行って、平らな部分を探して荒縄で長靴を縛り付けてそれで直滑降。せいぜい50m100mなんてとてもじゃないですね、なかったと思います。でもそれを何本も何本も滑って、それがもう楽しくて楽しくてしょうがなくて。下に行って止まるのはもちろん転んで止まる、そして荒縄を外して板を担いでえっちらおっちら登って行ってそしてまた滑る。この繰り返しをほぼ一日中やったんです。飽きずにやりました。このスキーですっかりスキーというものにのめり込んで、スキーの喜びを知りましたね。 3年の時も同じように行くはずだったんですが、その年は雪がものすごく少ない年。2学期が終わって終業式が終わったんですが「藤田、雪がないらしいよ、スキーに行けないみたいだ」と言われたんです。ところが次の日学校に遊びに行くと、体育の先生が「おう藤田、雪が降って行けるみたいだから友達に連絡つけられるか?」と言うので「あ、なんとか電話かけられまーす」と。で、その日25日の夜横浜駅に集まりました。その年は石打になりましたね。石打中ノ島スキー場。中ノ島と言われても皆さんわからないと思いますが、これは今の後楽園スキー場です。そこへ行ったんですけれども、その日はもうすごい雪でした。猛吹雪の中を石打の駅から30分以上歩きました。それこそあのぉ長靴の中まで雪が入っちゃうくらい、もう積もってましたね。もうぐしょぐしょになってやっと宿について。そして次の日1泊してもう1日滑って帰りました。2回のスキーで雪の状態、雪国のスキー場での雪というのがこんなにもその年によって違うという事も知りました。  『高校生〜スキーにのめり込む、道具にこだわる』    高校に進学して、1年生になっても2年生になっても中学時代の先生が「お、今年も行くけどお前も行くか?」と声をかけてくださったものですから、「あ、いいですかぁ?」と言って後輩たちと一緒にスキーに行きました。 高校2年の時に親にねだって自分の板を買ってもらったんです。今でも覚えていますが、昔の「野澤屋」(注:横浜の伊勢佐木町にあったデパート、のちの松坂屋)で買ってもらいました。この時の板はイタヤ(注:イタヤカエデ)の合板。平エッジで短いエッジが小さいビスで接面に止めてあって。それとシングルの革の靴。もちろん留め金はバッケン。あれ捻挫はするし、骨折もするし、っていうような道具でしたよね、昔は。 当時はみんな家から靴を履いて板を担いでスキーに行きました。帰ってくると靴の底が反り返ってしまうんですよね。ですから帰るとその反り返ってしまった靴を伸ばす為に、ブーツプレスというやつで靴の底をまっすぐになるように伸ばしていましたね。道具を買ってもらって初参加したのが石打の、当時は中ノ島スキー場と言ってた今の石打後楽園スキー場です。意気揚々と板を担いで行ったんです。その時、塩沢町の隣の姥島村の民宿へ泊っていたんですが、帰る時になったら靴がありませんでした…はい、盗られました。まだまだ物騒な時代。ですから昭和32年1957年の話。そういう時代です。物をちょっと置くと取られてしまうような時代でした。帰るのに困って宿で長靴を借りて…帰りは長靴、まぁみじめな感じでした。自分自身嫌になりましたね。帰ってきて長靴を宿に送り返して。そしてですねぇ、もうこわごわ「んー、スキーしたいから靴を買ってもらえないか」って親に言って買ってもらったのが、セミダブルの革の靴でした。  高校2年、3年と声をかけてもらいスキーへ行っていたんですが、石打から列車に乗って私たちは横浜に帰る予定なのに、参加している先生が何人か岩原駅で降りてしまうんです。3、4人はいたでしょうかね。「これから冬休みなんで俺たちスキーしてから帰るから」というんですね。「先生どこへ泊るの?」と言ったら「岩原スキー場で滑るんで、ちょっと下の岩原山荘という所に泊まっている」と言うのです。それから正月明けに私、スキーを担いでそこへ行ったんです。そこの宿は電気がなくて、夜になるとランプでした。まぁそれもちょっと楽しかったんですけれど、そんなスキー場でした。 他に、新鹿沢スキー場、湯沢の奥の土樽スキー場も、板を担いでは「先生来た!」と言ってはお邪魔していました。新鹿沢へ行った時も雪が少なくて、じゃあもう一つ上の旧鹿沢の方まで行ったら少し標高が上がるから雪があるかもしれない、と言って板を担いでなんだかんだ1時間位歩いて行ったこともあるんですけれども、そんな思いをしてまでもどこでもいいからスキーができると一生懸命通いました。 ですからもうねえ、私自身はもう目が見えなくなることは宣告されてましたので、一人で動ける間は、スキーができる間は、と思って夢中でスキー場へ通ったんです。  高校を卒業して私は大学ではなくて専門学校に行きました。私は網膜色素変性症で暗い所は苦手なんですが、もうかなり視力も悪くなっていました。高校卒業時にはもう零テン…、両眼で0.1は無かったです。高校卒業してから20歳位、自分自身の眼が「もうこの子は眼が悪くなりますよ、見えなくなります。50歳までには確実に見えなくなります」と言うお墨付きを眼科からいただいていましたので、眼が見えるうち、自分で一人で動けるうちに出来るだけスキーをしたいという…スキーだけが命でした、だったんです。20歳からほぼ一人で動けなくなる30歳までですね、この間にスキーを必死でやりました。小遣いは全部貯めて、冬に全部使いました。ですからまぁ贅沢な話ですけれども、イタヤの合板、ミズナラの合板。そしてミズナラがダメでもう一段上のヒッコリーという風に、段々と道具だけは凝っていきました。これがだって「生きがい」だもん(笑)もう本当に「スキーだけ」が楽しみで生きてきた人生の様な気がするんですけれども。  『さらにスキーに夢中になる』    他に行ったスキー場としては、志賀高原、南小谷スキー場、今は白馬コルチナスキー場なんていう洒落た名前になってます。それから赤倉も行きましたね。あとは万座、苗場も滑りました。 蔵王へは横浜市民が行った「市民スキー」と言うのがあったんです。横浜駅から列車を貸し切って山形駅へ行き、そこからさらに貸し切りのバスを何台も連ねて蔵王温泉スキー場へ。毎年横浜市民スキーというのをやっていまして、100人…もっとかなりの人数で、毎年来るからという事で鷹匠が鷹を飛ばして、なんてイベントもやっていました。当時は今みたいにお地蔵さんの所までゴンドラがありませんので、ザンゲ坂の下までリフトを乗り継いで行って、ザンゲ坂を板を担いで登って頂上まで行った記憶があります。 やはり印象に残っているのは、あそこです。ダボススキー場ですから、えーっとなんだっけ?菅平。 あそこは苦い思い出があるんです。ここは区役所へ勤めていた従兄とそこの連中の何人かのグループとで行ったんですよね。根子岳のツアーを。今はヘリスキーができますよね、ヘリコプターで頂上まで運んでくれるっていう。でも当時は初めてシール(注:アザラシの毛皮等で出来たスキーを履いたまま雪山を登るための物)というものを買って、根子岳へ上がりました。まぁなんだかあれ2時間位かかったのかなぁ。頂上の方はかなり岩もゴロゴロしている感じだったもんですから、まっすぐ降りることは出来ないんで、階段下降みたいな形で滑りました。ところがですね、あまりにも広すぎて、どこへ滑っていいかわからなくて。仲間3人で行って、前へ滑っている従兄を追っかけていたんですが、途中で転んでしまったらもう前を見失ってしまって。シュプールがもう見えないので、どこへ行っていいのか困った覚えがあるんです。その後従兄が見つけてくれて。さらにこれからがちょっと大変だった。宿に戻ってそこからリュックを背負って仙仁温泉まで下ろうという事になったんですよね。バス通りをリュック背負って板を履いて滑り降りて行ったんです。こりゃぁもう必死でしたね。ガリンガリンです。もうずーっとボーゲンやりっぱなし。高校出て間もなくの時代、20歳代前半だから頑張れたようなもんです。もう今だったら嫌ですよね。最初から「パース」です。そんな具合でねぇ、色々と失敗ありましたが、行かれる所へは一生懸命行きました。  『道具に凝る、初めての骨折』    それから私自身は割と道具に凝りましてね。もう新しいものが出たというとそれに飛びついて。で、飛びついたのがコバー(注:メーカー名)という、前のビンディングが、あらゆる角度に外れるというのを着けたんです。着けていていい調子で滑ったんですが、ある時岩原で昼滑った状態のまんま夜のアイスバーンのナイターへ出てしまったんですね。そうしましたら、外れました。左足だけです。左だけ外れて右足は滑って、外れた足はその途端に雪の中へと突っ込んでしまったんですから、はい。はじめての骨折。 それまで一度も骨折というものはした事がなかったんですが、左足の腓骨、外くるぶしの上が一番折れやすい所ですよね、一番細い所そこを骨折しました。後から来た兄貴に、「うーんやっちゃった。折れてるみたい。悪いけど救護所行って呼んできて」と言って連れていかれた所で、あーぁと思ったのが、その年初めてエラスティックパンツという、当時最先端のスキーパンツを履いていたんです。あらゆる方向に伸びるズボンで、その前は伸びないズボンでしたよね。この時何度目かのスキーで、救護所へ行ったらハサミでジョキジョキと…。 (会場:大爆笑) 切るじゃないですか。まぁね、あーぁと思いましたね。この時1月の20日過ぎ、もしかしたら2月10日ころだったか。「先生、今シーズン滑れるんですかね?」と聞きました。「無理に決まってるだろ!」と言われましたけど。 (会場:爆笑) そのくらいスキーをしたくてしょうがない時でした。初めての骨折がそれですね。  スキーの道具ですが、最初に買ったイタヤの合板、その次にミズナラの合板、それからヒッコリーの合板。ヒッコリーも最初は小賀坂の一番ランクの下のヒッコリーでした。最後に履いた合板は小賀坂の真っ黒な板で、これは僕気に入って、その後メタルの板だとかグラスファイバーの板を買っても、その合板の小賀坂の板は履いていました。とても滑りやすい板でしたね。 その後グラスファイバーの板。次はケスレーのメタルでかなり重たい板でしたけども、これはアイスバーンに強いもんですからね、夜のナイター、岩原で滑る時にはこの板を履いていました。 ナイターは空いているし、斜め横からの光でしたから今みたいに水銀灯でパーッと明るくなっているのとは違って、ちょうど野球のナイターようにランプの柱があちらこちらに立っていた。だからギャップが良く見えたからナイタースキーが好きだったんですよ。岩原でリフト券を買って一番先に乗るリフト(注:現在の第2ペアリフトA・B)に乗って上から滑ってくる。これが夜のナイターの最高の喜びでした。途中1か所暗くなっている所があって、そこは斜めに出てくるリフトの終点の所なんですが、人もいるんで非常にそこが怖くてぶつけちゃいけないと思って上でスピード落として。明かりの方へ透かして見て、人がそこはいないという所を狙って、もう一つ下の明るい所へ出てまた滑り出す、という風なスキーをしていました。 眼が悪いばかりの苦労をしながらも、でもまだスキーの楽しさには勝てませんで、スキーをやっていました。  『視力の低下、視覚障がい者になる手続き』  いよいよ見えなくなったのが27,8歳の頃です。最後の方は地形がよくわかっている岩原スキー場でしかスキーが出来なくなっていました。他のスキー場へ行きたくても一人では滑れないんですよね。ゲレンデ全体を見渡すことも出来ないし、このリフトに乗って上に行った時にどんなゲレンデが待っているのか分からなかったもんですから。その点岩原ですと、このリフトに乗ればあそこのゲレンデが滑れるし、夜ナイターで滑ってくるのはここの所へ降りてくるからこの辺から右の谷へ降りてリフト乗り場へ。そういう地形が出来ていましたから、最後の頃は岩原でしか滑れなくなっていました。 いよいよダメになったのが30歳です。もうどうしても一人では怖くて滑れなくなっていました。それまではなんとか白い雪面の上で人影があれば、男性女性の見分けはつきませんが、人がいるくらいの見分けは出来たもんですから、スキーをしていたんですが、これ以上やったら危なくて、人にぶつけたら大事になると思ってスキーを諦めました。  私はその頃28歳で結婚してましたんで(注:お相手は岩原のスキー宿のお嬢さん)、岩原には時々遊びに行ける状態ではあったんですよね。子ども連れで遊びに行きました。そして上の子どもが生まれて4歳ぐらいになった時かな。やっぱりスキーがしたくなっているし、子どもをダシにしてちょっとスキーやってみようかな、と思ったんです。そこでナイターの時にあそこのあたりは明るいんだというのがわかっていましたので、そのあたりまで子どもと一緒に子どもの頭で誘導されながら、子どもと私の板を担いで行きました。そして明るいはずの所へ行って「ここが明るいだろう?」と言ったら「うん、パパここ一番明るいよ」って言うんですよね。ところが私にはその明るさすら感じられなかったんです。明かりの方へ透かして見れば子どもがどんな格好をして滑っているか分かるだろうと思ってそこまで連れて行ったんですが、いざスキーをしようと思ったら何にも見えませんでした。明るさすらも感じられない状態だったんです。  もうこれはダメだということで、35歳の時に障がい者としての手続きをして視覚障がい者になりました。 視覚障がい者として白い杖をつくことになったんです。白い杖をつくことになって本当にホッとした、こんなに白い杖をつくのが楽だということが初めて分かりました。ていうのはやはり疎開から帰ってきてずーっと小学校4年生からその時までそこに住んでいて、そしてもう結婚して子どももいたので、35歳になって杖を持った時に周りの人になんて言われるかなぁ、というような思いがあって障がい者になるのが3年ほど遅れてしまっていました。踏ん切るまでの期間ですね、やはりこれが辛い時代でした。そしてその白い杖を持った時のホッとした気持ちがこんなに楽なんだ、と初めて知って。  『ライトセンターのスキーとの出会い』    視覚障がい者となって、按摩指圧師・鍼灸師の資格を取って、それで仕事して稼ぐしかないという事で、家から歩いて20分位の横浜訓盲学院へ行き、免許を3年間で取って38歳ですぐに開業しちゃいました。 ちょうど仕事をし始めたのが昭和52年38歳です。その頃バブルで良かったんです。ですから仕事も順調でした。えー、もう休む暇が無いほど仕事がありました。私のようにまだ未熟な者でしたけども、どんどん来てくれまして、お陰様で、あっこれだったらもしかして、うーんスキーは出来ないまでも雪の上に行かれるようになるかなと思ったんです。というのは家も建てて、ローンも順調に払えるようになっていまして、経済的にある程度余裕ができました。  その頃障がい者になって送られて来ていたライトセンター便りの中で、2〜3年前からちょっと気になっていたものがあったんです。それは「安全スキー(セイフティスキー)」という文字があったんですよね。でも自分の技術、眼が見えない状態でそのスキーに参加して出来るんだろうかという事で踏ん切れなかった。 その後41歳の時ですね、その「センター便り」で「雪に戯れ、雪に遊んでもらおう」という記事を見つけたんです。これならば大丈夫だ、眼が見えなくても雪と戯れる、雪の中で遊べるんだ、雪の中に立てるんだ!という事でそれに申し込もうとしました。そうしましたら「あ、藤田さん今年はもういっぱいになっちゃってて。残念だけど今年はもうダメだから来年はちょっと早めに電話して」って言われて泣く泣く諦めて。  次の年はもう早々と募集の始まるその日に申し込みました。それが第4回。 横浜西口から行って、着いたのが夜中の越後湯沢町、当時の新日本スキー場、今の湯沢パークスキー場です。そこに着いてバスから降りて「あぁ!雪の上に帰ってきたぁ!!」というあの時の嬉しさはなかったですね、今でもはっきり覚えています。もう雪の上、要するに駐車場です、駐車場の雪の上に立った時の喜びです。これが42歳です。 翌朝、貸しスキーで履き慣れた靴を履き、そしてレンタルの板を着ける。過去にかなり滑り込んでいたのでどんどん出来ていました。残りの人たちは「どうやって履くの?」とかごちゃごちゃ玄関の先でやっていたので、そういった様子を実行委員の方、役員の方がきっと見ていたんでしょう。どうもあの人はスキーが出来るらしいよ、ということになっていたみたいです。いよいよスキーを始める段階になって、滑れるらしいという事で僕だけリフトに乗せてもらえました。そしてリフトを1本、上から「右」だ「左」だ言われながら降りてきたんです。これがまあ!嬉しかったです!!そうですねぇ、500mは無かったと思います。「転ばず」に降りてきましたよ。 (会場:笑) ですから、どうにかあの人は滑れる、という事で何本か滑らせてもらえました。10数年ぶりのスキーでした。 そこにいらしたのが白崎さんだったんですよね。それからずっと付き合っていただいてる白崎さんです。 帰ってくるとすぐに白崎さんから「藤田さん、ちょっとライトセンターまで来てくれる?」それで、「藤田さん、スキーをする時どんな事に困った?視覚障がい者が滑る時にどういう風にされたらいいかなぁ?」って言われたんですよ。で、僕は「何も様子が分からないゲレンデの上からどこにどう滑って行っていいのかが全然分からなかった。だからもしかして、下で笛を吹いてもらってその笛に向かって滑って行ってと言われたらもっと滑り良かったと思う」という事で、笛の提案をしたと思うんですよ。 その時からサブリーダーが先に行って、そのサブリーダーの笛の所に向かって滑っていくという事を最初は取り入れました。私たちのクラブでも取り入れてましたが、それは最初に視援奉(注:神奈川県視覚障害者援助赤十字奉仕団)で始めたことでした。  『クラブの発足』    そして44歳になった。視援奉の第6回目のスキー、その時にうちの部屋の仲間と「このスキーに年に1回だけ参加してたんじゃ、年に1回だけしか滑れないんだよね。自分達でクラブを作ったらもう1回自分達でツアーが組めて、もしかしたらシーズンに2回滑れるんじゃないかな?」という相談をしていました。それを聞いていたのは矢部さんです。 (会場:笑) 同じ部屋にいたようなんですよね。「やべっちあの時何年生?」 (矢部:高1です、16歳ですね) 高1か。なんかね、おじさんがなんかやってるなというのを同じ部屋の隅で聞いてたみたい。僕たちは部屋のこたつに入ってブラインド4人で相談してたんです。当時発足時にいた上杉さん、僕の後に会長をやってくれた福島悟君、阿部先生、そして私の4人。 そうしてこのクラブがやっと作れることになったんだけど、最初のうちはパートナー集めが大変だったんです。パートナー集めの大変さをわかってくれたのは小林さんであって、1990年に朝日新聞、小林さんの所に取材に来ていた朝日新聞の方が新聞に書いてくださったんです。これが8月です。その新聞が出た次?その日からかな、もう2,3日家の電話鳴りっぱなしだったんです。実は大変でした。私は仕事していましたんでね、家内が対応してくれて。電話番号が分からない人には電話番号聞いてもらって、私の仕事が終わってから電話して。2,3日で100人以上の問い合わせ、その時にどんと増えて。はい、結局当時見ると70人の会員数になってますね。  1993年朝日新聞にもう1回、私の家に来ていた朝日新聞の方が1月に書いてくれました。そして増えて140何人という最高の会員数。そして今の私達のスキーがずっと成り立ってきています。 要するに、パートナーさん次第ですね、私達のスキーというのは。ですからこれからも色々とパートナーの方には頑張ってもらわなければいけません。色々とこれからも皆で頑張っていきたいと思いますんで、よろしくお願いしたいと思います。 『クラブの黎明期・ツアーの思い出』  そんなことがあって、最初は岩原その次に石打の後楽園スキー場で2回3回4回やって、5回目からは実行委員会方式にして5回6回7回8回、ええっと、うーんとあれ、丸沼へ変わりましたね。 4回目の時に、金澤真理さんがラジオ関東(現在のラジオ日本)の取材として視覚障がい者のブラインドスキーを取材に来てくれたんですよ。その時初めて私達のスキーが、まぁラジオ関東でしたけれども、放送されました。30分間の番組でしたね。 丸沼に移って「おおくら荘」という民宿を使いました。バス1台で行って泊まれる所がなかなか見つからなくて。ところがスキー場までバスで往復20分位かかりましたので、その時間がもったいないからという事で、ゲレンデの中にある「シャレー丸沼」に泊まれないかと。で狙っていって9回から「シャレー丸沼」へと。 7回からは大分パートナーさんも増えたという事で、シーズン2回のツアーができるようになるんじゃないか、という事で、その年からエコーバレーへも行くようになりました。選んだ宿は「森の音楽家」という、楽器がいろいろある楽しいペンションではあったんですが、何せね、崖の上にあるようなところで、下まで降りる階段が急だし、これじゃちょっとということで2年で懲りて、その次9回目から「エスポワール」という、もう少しゲレンデに近いペンションを使ったんです。 10回目にはNHKのテレビの取材が来ました。前の年に「視覚障がい者とともに」というラジオ番組の取材が来たんですが、その取材で来た林さんという人が、「このスキーは音ではダメだ、映像で見せなくちゃダメじゃないか」という事で、その方の推薦で次の年にテレビの取材が来てくれたんです。 エコーバレーで丸々3日間、私達と一緒にゲレンデにいてくれて色々な場面を撮ったんですが、3日間が30 分になっちゃった、と思う位の、でもきちんとしたテレビ番組になっていました。 その番組の解説者として白崎さんがNHKのスタジオへ行ったんですが、実はその年阪神淡路大震災の年で、白崎さんは本当は向こうに行かなければならなかったのに、大変な辛い思いをしてスタジオへ行ってその番組を見ながら色々とお話ししてくれた記憶があります。 実はその取材の1本目に私が滑ってるんです。一番最初の場面が私なんです。ところがですね、その年のシーズン1本目の滑りがその滑りなんですよ。別に足慣らしも何もしないでいきなり「撮りますから」と言われて、えーっ!と思って。でもまあ何とか滑れてたみたいです。その時の有名なアナウンサー、なんだっけ。広瀬久美子さんが、「ずいぶんお上手に滑りますね」なんていう言葉があったので、少し自慢に思っておりますが、自分では見えてませんからね。 (会場:笑) まあ、なんとか滑ったなあという記憶はあります。  11年目には10周年記念ツアーとしてキロロへ行きました。えっと、96年ですね。まあ、実はちょこっとばらしてしまっていいのかわからないんですけども、ある方を横浜駅へ置いてきてしまってとか…。 (会場:笑) 古い仲間はみんな覚えております。他にも、ばらしちゃっていいかな?志村さん。森の音楽家では露天風呂事件とか…我々のクラブでは色々ありましたね。(笑)  『プライベートスキーの思い出』    下手な話を続けさせてもらいます。 キロロへはその後もなんだかトータルして10年ぐらいは楽しませてもらっています。だいたいスキーシーズンの終わりはキロロで終わっていました。私の場合はプライベートで色々なスキー場に連れて行っていただいておりました。白樺湖周辺で車山とかツーインワンとか白樺高原国際とか。他に那須高原。那須では雨で滑れなくて残念という時が何度かありまして、でも温泉に浸かったり、色々と楽しい思い出もあります。 ええとそれからですね、プライベートで2000年に有志でカナダへ行きました。60歳になってから「白崎さん連れてって」って言って。 全部で21人で行ってるんです。残念だったのは矢部君が風邪をひいてあんまり体調がよくなかったこと。ご家族で行って、今はもう大学生になっている新(あらた)ちゃんはまだあの当時3歳だったかな? (矢部:2歳ですね) 2歳か。膝の周りに鈴をつけて居場所が分かるように工夫されてる新ちゃんを思い出します。 ウィスラーを滑りました。広いゲレンデを気持ちよく滑らせてもらいました。視覚障がい者は男は私と矢部君、女性は亡くなった由紀ちゃんと岡由美ちゃんの4人でした。 この時にも色々と事件はありました。 (白崎:ありすぎた) (会場:笑) 色々あったんです。火事事件とか。中から鍵かけたっきり出てこない人がいまして、みんなで心配して結局フロントの人に来てもらって鍵開けたら中で優雅に寝てた人がいたんです。全くまぁ人騒がせなねぇ。色々と大変でしたが今となってみれば笑い話としての思い出話になるんです。 この時はバンクーバーの市内見物もしたいっていう事で、最後の日はバンクーバーに来たんで、現地では3日しか滑っていないんですね。その3日目で本来私たちのグループもブラッコムのセブンスヘブンという本当にいい所へ行くつもりでお昼を食べて、さぁ午後から行くんだ、と思っていたら案内をしてくれた人が、「天気がどんどん悪くなって上はもう全然ガスっちゃって見えないし、これから荒れる一方だから早く下へ降りましょう」という事で下へ無理やり降ろされてしまいましてね。 それが心残りで2004年にもう一度ウィスラーに行きたいという事で行きました。この時も白崎さんに無理を言って連れてっていただきました。2度とも福山さんは行ってまして、そう、あの火事騒ぎの時には大活躍して。 (会場:笑) 2004年の時は、亡くなられた加藤勝さん、女性は岡ちゃんと由紀ちゃんでしたね。 あの時は11人だったんです。田中幸春さんとか、それから衣笠さんも行ってくださって、なかなか楽しく滑ってきました。 それで実はですね、私は来シーズン、もう一度ウィスラーに行きたいな。体力的にもうギリギリだなと思ってきてますので、もし私に体力があれば来シーズンにはもう一度ウィスラーで滑ってみたいと思ってますんで、よろしく皆さん、ご協力お願いいたします。 (会場:笑) (白崎:やっぱり言われるんじゃないかと思った。行きたいね。) (会場:笑) 行ってみたいんです。もう一度最後に。僕はもう最後なんです。腰ギリギリなんだよね。 (会場:笑) (福山:私も最後だと思います) (会場:笑)  『クラブ発足10年、その後』    10年が終わって、これで20年に向けてスキー場は丸沼から尾瀬岩鞍へと2001年に変わりました。ただ、今も使っている「かぶらぎ」にいきなり行ったわけではなくって、もう少し下の民宿かな?ペンションかな?で2シーズンぐらいやって、それでゲレンデすぐ下の「かぶらぎ」を見つけていただいて、これは未だにずっと続いていますね。いかに皆さんが気に入っているスキー場、宿、という事がよくわかりますね。 で、20周年の時に今度はパーティーを小西さんの紹介で、横浜ベイシェラトンでやりました。 そしてこの時の記念ツアーは富良野へ行きました。富良野スキー場です。 その前の年に有志で下見を兼ねて富良野で滑っています。雪質の良さ、宿もプリンス。しかも新プリンスの方がいいという事で。 富良野も頂上から滑ったよね?高野さん。 (高野:滑りましたねえ) 楽しかったよね。 30周年では、またキロロに行こうかという話が持ち上がって、あぁキロロはいいな、ということで矢部君に無理言って下見に私も連れてってもらって滑っています。 ええっと、これで30年まではどうにかあれなんですけども、今年は35回目、35年目ですよね。シーズンとしては。 そして私はですね、70歳を機に一応まぁかっこよく言わせてもらうと、後輩に道を譲ろうなんて、あの何とかしおらしい気持ちでクラブからは引退したつもりだったんです。 やっぱりでもダメですね。 (会場:笑) ていうのは、2013年からまた岩原が入って、シーズン2回のスキーになったということで、あぁ岩原か… うーん懐かしいし、見えなくなる際までスキーしてた岩原、そしてまぁスキー人生が終わるのも多分岩原だろうな、とは思ってはいるんですが。まぁ、私が見えている間に滑っておこうといって夢中になって滑った岩原とは今は全然地形が違います。全然違う滑りやすいスキー場にはなってると思うんです。まあ皆さん上手い方達は一番右の急なところも滑って雪だるまになって降りてきていますが、あそこは昔は半分くらいの幅しかなくて、あの急だったもんですからほんとに大変だったんです。今は迂回のコースも出来てますから、割と楽に滑って来られますよね。 そして岩原の「アルパイン」さん。ほんとにいい宿、ホテルです。それから尾瀬岩鞍の「かぶらぎ」さん。ほんとにね、志村さんが親戚のようにお付き合いしていただいてるんで…。 (会場:笑) とっても優遇してくださいます。  この岩鞍でカービングスキーっていうのはこういう風に滑るんだよ、というのを教えてくれたのが、その時初めてパートナーをやってくれた外山さんなんです。リフトの上であーでもない、こーでもない、ってね。いろいろあの、教えて下さいまして。で、降りてからその通りに滑ろうと思ったんだけど、そうはいかなかったですね。 (会場:笑) でもまぁ、外山さんの誘導はお上手ですから、力が入ってるところを「力抜いていこう」なんて言われると、もうその通り言う事聞けば、割とコブも越えられるんですね。硬くなってるから飛ばされるんで、楽にしてれば膝で吸収してくれるな、と思いながら滑るんですが、やっぱりちょっと急だよとか、デコボコだよと言われると、もう途端に体が硬くなります。私達はパートナーさんによって自分の滑りが結構変わるという事も自覚できます。やはりこの人大丈夫かな?と思うと硬くなりますね。自然と体が硬くなって、腰が引けてるようなんですよね。とっても私達敏感に感じますから。 (会場:笑) 大丈夫、大丈夫と言われているだけで、大丈夫なんだと。ホントに単純ですから。  それから、富良野のあとプライベートで結構糠平温泉スキー場というところで滑っておりました。大雪山を挟んで裏側、中側、帯広側ということで。やっぱり雪質もいいし、まず温泉があるというんで気に入りまして、あそこも何年か行きました。しかも安くツアーが組まれて行ったのですが、ちょっと値段も高くなったし、日にちがなかなか合わなくなって、行かなくなっています。ただ私、自分自身が70歳で引退したつもりだったんですけども、「25周年糠平行こうよ」と、私つい口を滑らせてしまって…。 (会場:笑) 実行委員さんを動かして、役員さんを動かしてしまって。普通は20周年、30周年と10年ごとのツアーが 私のわがままで25周年ということで糠平温泉へ行きました。これも、雪質もいいし滑りやすいスキー場で。だいたい空いていますしね。あの、良いスキー場だと思っています。料金さえ合えば、いい所だなと思っております。何にしましても、私の場合にはあの恵まれておりまして、プライベートでかなりあちこちのスキー場で滑らせてもらっております。 ただ、残念な事に、これはどうしようもないですね。年齢。自分ではそれなりの努力はしているんですが、身体の方はなかなかいうことを聞いてくれません。だいたい転んだ時に自分の身体の方まで板を引き付けられなくなっています。ですから、特に緩斜面で転んだ時に立ち上がれない。 (会場:笑) まあ、これは悔しいけどしょうがないですねえ。だからある程度の斜面の所で転ぶ方が、立ち上がるのに楽です。パートナーさんの手を借りないで済むわけなんですね。 ホントにまぁ、自分自身がスキーをやりたいからといって、その時に一緒に誘った人たちはもうとっくに辞めちゃっております。でも、あの、腐れ縁で付き合ってくださっているのが白崎さんであり、早めからパートナーとして参加してくれてる福山さん、成田さん、小林さん、そういった古い方たちがいてくださって。 2回の朝日新聞で結構パートナーさんを会員として迎えることができて、今も続いております。 それから、新しい視覚障がい者の方やパートナーさんもたくさん来てくれています。  まぁ、今回私がこうやってスキークラブが始まった時からどういう風にしてクラブが出来て、今に至っているかを話して欲しい、という提案があった時に、どんな風に話したらいいのかな、と思ったんですけれど、そうだ。自分がやりたいスキーをこんな風にしてやってきたんだ、それを話せばいいいんだな、という事で、気が楽になったんです。ですから、私自身が本当にスキーが好きで、一生懸命見えている時に虫眼鏡で字を追いながらスキー雑誌を読んだりして、それすらも叶わなくなってスキーがダメになった、行かれなくなったと思った。それから14年後、視援奉のスキー「雪に戯れ雪に遊んでもらう」というのを知って。それからスキークラブを作ろうという事から始まって、今に至っているわけです。 その間、多くのパートナーの皆さんにお世話になりながら、自分の楽しみを今日までやって来てるわけです。まだ体力があると思うんですが、家内から「お父さんいつまでやるの?みんな迷惑してるよ」って言われましたんで。 (会場:笑) いや、でもねまぁなんとか、スキー行くよと言えば、嫌々なんだろうけども「ケガだけはしないでよ。周りに迷惑かけるから」それだけはくれぐれも言われてますんで。この頃は一生懸命スピード落として、皆さんに迷惑にならないようにしているつもりなんですけども。 この頃はちょっと大事にされ過ぎてるかなと思いますが、まぁもう少し大事に扱ってください。 (会場:笑) よろしくお願いします。これで私の話は終わります。 <講演会の後に藤田功三さんにいくつかの質問が出ました。> @ NHKの映像の件 渋谷:先ほど何度かNHKの取材とかってことで、その映像は残ってはいないですか? 外山:以前白崎さんのVHSテープをお借りして、DVDに落として持ってます。ちなみに、NHKのスタジオで白崎さん出てまして、しゃべり方は今と全く同じです。あの時代から白崎トークが炸裂しております。 (会場:大爆笑)  しかもNHKの番組で全然緊張せずにガンガンしゃべってます。隣に座ってるのが中村メイコさんって皆さん知ってますかね、大女優で今もう85歳くらい、その娘さんの神津カンナさん60代。一緒に白崎さんと掛け合いしながらやってるという。何で白崎さんそんなに緊張しないんだろうなと思うぐらい大きな声でしゃべってました。以上です。 小平:緊張しなかったんですか?白崎さん。 (会場:笑) 白崎:えーっ?緊張?緊張はしなかったですね。 (会場:笑)  ただそれよりも、やっぱり気になってたのは阪神淡路の震災の方で。まさにねえ、震災があったすぐ後だったから。で僕はそん時赤十字の事務局で仕事してたんで、ボランティアをどんどん現地に出さなきゃいけない仕事をやってたんだよね。だからそこのそれの方がずっと気になってたね。 A スキー以外に夢中になっていたもの 清宮:スキー以外に何か夢中になるスポーツってあったんですか? 藤田:うん、あのー若い頃はやっぱり冬に向かって夢中になって仕事してました。 (会場:笑)  稼がなくちゃ遊べないと思って。でも仲間、グループがいましてね、ハイキングには結構行ってます。クラブでも結構いろいろなところに行ってますよね。クラブの昔のやつを見ますと、丹沢周辺を歩いたり、箱根周辺も行ってます。結構あちらこちらみんなで歩いてますよね。冬、自分が楽しくスキーをする為にはと思って、結構体は動かしてました。シーズン前、9月ぐらいから、スクワットとかラジオ体操とか。夏ちょっとサボった分、これだとスキーが面白くないよな、やっぱりスキーというのは体が疲れてしまって自分が思うように滑れなくなるのが一番面白くないですから。体力さえあれば自分が思うように滑れるということで。今でもスクワット、それからライトセンターのプールに月に2回ぐらいは来ています。あと、ラポールでボーリングもやってるんですよ。 B ツアー時の声の録音 白崎:僕ねえ、あのー藤田さんには、お世話もしてますけどずいぶんお世話にもなってて。よく鍼打ってもらいに通いますよね。その時にいつもすごいなと思うのは、その前のツアーに行ったときの録音が撮ってあるのね。それで、それを聞きながら、ちゃんとねー、分析してるんだよね。で、「白崎さん、この時はこうじゃないのか」とかね。自分で録音しておいたものを帰ってきて聴いているあの熱心さにはね、やっぱりね、ああすごいなあって。たいしたもんだなあー、という印象をいつも持っています。 井上:インカムでご自分がしゃべった分と、そのパートナーの言葉と両方録音されているんですか? 藤田:この頃でこそやってないんですけども、ICレコーダーだとちっちゃくて胸に入るから、そっからマイクを引っ張って自分のヘルメットの後ろっ側につけて、パートナーさんが誘導してくれている声を拾うんです。 (一同:感嘆)  それがですね、最初のうちはね、風ばっか拾うわけ。どうしたらいいだろうと思って工夫して、ウレタンを二重にしてかぶせると全然風の音はなくなって、パートナーの声だけ拾う。だから20周年で富良野に行った時に、外山さんに「外山さん、ちゃんともう少し近くへ来て声かけして」っていろいろ注文かけたのは、あれはみんな録音してたの。 (会場:爆笑) 外山:私は台湾に3年駐在してたんですけど、台湾に行く前に藤田さんのところに1回行ったんですよ。ちょっと揉んでもらいに行ったんです。で、藤田さんの所で3時間ずーっと私の声が流れるんです。私の声だけが3時間ずうっと流れるんですよ、息がハアハアと。 (会場:爆笑)  めっちゃきもかったですけど。 藤田:そ、だからスキー場でスキーやってきて、家に帰ってから皆さんに誘導されているところを聴きながら、自分でまるでスキーをしているような楽しみをしていました。 C ウイスラーでのスキー 小平:さっきカナダに2回いらしたって言ってましたよね。次にカナダに行ったらどういうところを楽しみたいですか? 藤田:何にしても上の方は雪質がいいし。2000年に行った時には何でもかんでも下まで滑り降りてたんですが。ねえ白崎さん、下の方が意外と雪質悪くてね。新潟と同じびしゃびしゃの感じになっちゃうの。それで考えまして、2度目に行った時にはゴンドラの終点からゴンドラに乗って降りて、だから上だけで滑ったの。 白崎:もう下は滑る気しないもんね。 藤田:そうです。ホントに雪質悪かった。 白崎:あそこ行ったことでもっていろんなこと勉強させてもらいましたよね。例えば、ほら、ヘルメット。ウイスラー行ってから、やっぱりヘルメットしなきゃいけないんだという取り組みがクラブの中でもできたし。 井上:何でそうなったんですか?ヘルメットが必要っていう。 白崎:向こう行くともう子供から、普通に滑ってる人もみんなヘルメット使ってるんだね。だからヘルメットはどんなに簡単なところでもちゃんと用意して使わなきゃいけないな、っていうことがわかったし。他におもしろかったのは、リフト券買うと、あのー、視覚障がい者は金取られて、ボランティアはタダになるんだね。 福山:夕方滑った時にパトロールが出てて、スピード違反を捕まえるんだって。 藤田:あそこはブラッコムの一番下の所で、全員があそこへ滑り降りてくるんで、結構アイスバーンで硬くなっちゃってて、スピードが出るからですよね。ホイッスルでね止められるのね。 白崎:雪が良かったせいもあると思うんですけど、向こうで中級斜面といってるのが大体29度、30度近いんですよ。だけど平気で藤田さんなんか降りて来ちゃうのね。ガンガンガンガンそういう所を。すごいですね。なんか向こう行くと、あそこで滑ってると上手になった気がしますね。 藤田:そう、長い距離滑れるのが楽しかったですよ。それと、広いから。人がいるようだけど広いから人少ないので。それと、僕はその2000年の時に、靴は持ってたんですけど板を借りたんですが、初めての本格的なカービングスキーだった。 白崎:あ、そう、そうですね。カービングスキーがね全部向こう揃っててね。それでこんなに滑りやすいんだ!ってわかって。 藤田:帰ってくるとすぐにカービング買いました。 (会場:爆笑)  それから2004年に行った時にびっくりしたのが、一つの鍵がすべてのところで通用したじゃないですか。たとえば、自分たちの部屋、ロッカーの鍵、それからスキー場へ行って板を立てておく所の鍵も、全部同じ鍵で通用して間に合っちゃう。あれにはちょっと驚いた。 井上:みんな開くんじゃないですか? (会場:大爆笑) 福山:リフトもあっちからこっちから集まってきてそれが順番にこう一本になっていくのね。沢山の所から集まって。 白崎:リフト乗るのに並んでないの。みんなわーって集まってるんだけどちゃんと順番に乗ってんの。 D パートナー集め 矢部:パートナー集めで苦労した話とか、そういったところをお聞かせいただけると今苦労してるメンバーが少しこう心が和むかなと思うんですけど。 藤田:最初はさ、ほんとに何にもないところから支援奉のレク部会の人とか、そういう人たちが僕たちのパートナーとして手伝ってくれて。その年にラジオ関東で放送してもらって、お二人の姉妹が参加してくれて。その年から公報横浜に5年間ぐらい募集を載せて。横浜市内の世帯に全部配られる公報、それで来てくれたのが小林さんであり、大友さんもそうだったと思うんだな。でもなんと言っても全国紙の地方版でしたね。朝日新聞でした。だからやはり、新聞だよね。それから今は、矢部さんがやっているFacebookとかそういうものなんだろうな。やはりFacebookやなんかは結構反応があるんでしょう?問い合わせ。 矢部:そーですねー。まあそれなりに見てもらったり、問い合わせはあったりしますけれども。ハイ、それをやったからと言っていいっていう感じではないですね。 藤田:うーん、そうだねえ。まあ私たちのスキーの場合にはやはり、晴眼者がお友達に声をかけてくださってというのが一番確実なのかもしれないんだけど。なかなかそれは難しいことかなあ。 E パートナーとの滑りに関して 小平:このクラブ、新しい人もたくさん増えて、パートナーもブラインドも新しい人たくさん増えていて、どんな風になって行ってほしいなって思われます? 藤田:そうですね、結局、私たち視覚障がい者がスキーをするにはパートナーさんが必ず必要だし、パートナーさんについてもらうには、今のうちのクラブの、特に上級の人の上のクラスの人たちは皆さんもうすごく上手になってるから、それについて行くだけの技術のある人でないと付けない。だから、まあ上手になっちゃってる人の場合には、自分でコントロールができるはずだから、後ろのパートナーさんの技術に自分が合わせる。 (会場:大爆笑)  ことも、矢部君、できるんじゃないのかな。 (会場:笑) 矢部:鋭意努力します。 (会場:爆笑) 藤田:ね、だから後ろのパートナーさんが、ちょっとスピード出しすぎてるからもっと押さえてよとか、付ききれないよそれじゃ、って言われたらちゃんと落とすと。 (会場:笑)  竹内さんもそうだし西川さんもそうだよ?そうそう。確かにね、スピード出して自分が思うように滑れてる時は楽しいと思うけれども、でもやはり私たちはあんまり無茶なスピードを出し過ぎて事故があった時にはクラブ全体の責任になってしまうし、やはりコントロールできるスキーをして行きたいと思います。例えば、ミルキーウェイやなんかはガンガン滑るのが楽しいかもしれないけども、そこの中でコントロールしたスキーができれば最高じゃないのかな。 小平:コントロールできるスキーは、私もそう目指したいと思います。一番きっと大事なことだと思うので。自分も怪我するのはいやだし、人に怪我させるのが一番怖いので。で多分、これから色々ある、メディアとかにも出る機会があるかもしれない中で、やっぱりあのー、こういうのやってるよというだけじゃなくて、こんなに安全にやってるんだよというのをたぶん知ってもらうことが、一番私は大切かなあと思っているので。こんな人たちがいるんだったら、こんなに安全に滑れているんだったら、一緒に滑ってみたいなと思ってくれる人が一人でも増えればいいなあ、と常に思っています。功三さん何歳くらいまでスキーできそうですか? (会場:笑) 藤田:僕はこのところ腰が悪い、というのも狭窄症なんですよね。それで結構前屈がきつくなってきてはいるんですよね。でもあのー、スクワットやなんかで少し鍛えだしたら歩いていても痺れが出なくなってるんですよね。10分ぐらい歩くと足が痺れてきちゃって、まるで雲の上か何か、自分がどこ歩いてるかわからないくらい痺れてたんです。それが今なくなったんで、まー、なんとか、歩けるうちはスキーしたいなとか。ただ、まあ付き合ってくれる人がいるかどうかが問題だけどね。一人じゃ滑れないからねー、何にしても。 F スキー場のいろいろ 矢部:功三さんがウイスラーに行きたい!というお気持ちはすごくわかりました。そのほかに国内でここ行ってみたいなとか、ここ行ったことないなとかいうスキー場はありますか? 功三:そうねー、結局僕の場合には過去に滑ったスキー場の中でどこがよかったかなあっていうことしか思えないんですね。有名なスキー場はやっぱり、人が多くて混んでるよね。僕の場合に混んでると言うのは二の足踏んでしまう。だから今行ってみたいなと思っているのは、過去に滑ったところでは国内では富良野。ねー、ザイラーコースいいよね。(会場:和やかな笑い) 白崎:じゃあ40周年は富良野行こうか。 (しばし功三さんと矢部さんの談笑) 藤田:矢部さんねー、僕はあの、野沢温泉ってのは滑ったことないんだけど、野沢ってどうなの? 矢部:野沢すごくいいですよ。大好きです。野沢はもうコースが長いので、一番てっぺんから一番下まで降りると8キロ〜10キロ?10キロくらい最長だととれる。幅も広いし。ま、広いコースしか滑ってないんですけども、とてもいいと思います。  ただ、リフトとかゴンドラに乗るまでにちょっと、坂道を上がったりしなくちゃいけないのが、しんどいかなあというところですね。アフタースキーは温泉で、帰り道に地ビール飲んで。 (会場:笑) 功三:矢部君には最高にいいとこだね。 (会場:爆笑) 矢部:確かに。 (会場:笑) G 雪への憧れ 丹野:そもそも功三さんがね、雪にすごい憧れたじゃないですか。子供の時に。で、初めて雪を疎開先で見て、なんでそこまで雪に憧れがあったかって、ご自分でわかりますか? 藤田:わかんない。ただほんとに雪が好きになっちゃったんだなあ。 丹野:絵本で見た絵とか? (会場:トニー・ザイラー、前世はトニー・ザイラー、いや無理があるか。同じくらい。などなど・・・) 藤田:何か知らないけどほんとに雪に憧れて。 小平:こうなる運命だったの。 (会場:笑) 渋谷:そう相性みたいなもんじゃないの?んーん、だって雪見たってさあ、感動しないやつは感動しないんだし。 (会場:笑)  なんかすごい、ほら音楽と出会ったりで、のめり込んじゃうのもいるし。そんなもんだよ。 丹野:わかんないですね、じゃあ。ご自身でも。 藤田:わかんない。ただ好き。 (会場:笑) H スキーの道具 清宮:お話の中でも道具に凝ってたって言ってましたが、やっぱり実感するから道具をドンドン変えたかったんですか?その追求していくきっかけでもないんですけど、やっぱりいい滑りしたいっていうのがそこですか? 藤田:そう。たとえばビンディングには結構凝ったんですよ。特にもう怪我はいやだからセーフティー、こういうのが出たといえば履いてみたくなるし。というのも私の場合には前から言ってますけども冬のスキーに命をかけちゃって、お金もかけちゃいましたから。 (会場:笑) 春野:道具も年々変わりましたよね、あの頃は。今よりも全然違うものが出てきたから。 藤田:そう。板っていえば全部モールドエッジのグラスファイバー、でモールドっていうのは最初どんなものなんだろうなと思って、モールドの板をはいたときに、あ、こういうものなんだ。昔の平エッジなんていうのは家に帰ってくると、どこかが飛んじゃってんじゃないかと思って見て、その飛んだところへ当てはめるエッジっていうのが売ってましたから。 (会場:あちらこちらから昔話)  そう。だから最初の頃の板っていうのは必ず折って変えてましたね。 (会場:笑)  うん、3本目ぐらいまでは折って。まだ自分ではうまいつもりになっちゃっていて、曲がったら先っぽが突っ込んじゃって、それで引き抜いてみたら先っぽがなかったとか。 (会場:笑) そういうことが2、3本ありましたから。まあよく足が保ってるなと。 (会場:笑) 清宮:今よく買いに行くお店とかありますか? 藤田:行くのは、横浜の港の入り口にある石井スポーツです。近いし、ちょっとあの、店員さんとも・・・(会場:馴染みだから、お互いよく分かってる、笑) I 誘導 矢部:見えなくなってスキーを再開したときに、視援奉のブラインドスキーに参加されたので、後ろからの誘導っていうので声かけしてもらって滑ったのが最初だと思うんですけども。それ以降、あのー、例えば他のところだと前誘導をやったりとかするグループもあったりするじゃないですか。そういったのと言うのは経験されたことはありましたか? 藤田:無いんです。 矢部:無いんですか。 藤田:僕は視援奉と、うちのクラブしか無い、参加してない。で、視援奉でやってる時には、もう最初から後ろからの声かけが当たり前だと思ってましたから。で、そこの中でどういう風にしてもらったら自分が滑るのに楽かなというのを、ま、僭越ですけども白崎さんとご相談しながらやった気はしてます。こういう風にしてくれるともっと滑りいいんだけどなとか、白崎さんも私たち視覚障がい者の立場になって、いろいろ考えてくださって、やってくれました。だから今うちのクラブのように弱視の人も出てきて、前を滑ってほしいという要望も出てきてますから、ま、いろいろ、時代によってはそうなるんだろうとは思うんですけども。やはり障がい者の方がいかに自分が滑りやすいかということを追求すればいいんじゃないかな。 矢部:ありがとうございました。 藤田:ただ、僕、ちょっとこれは甘えかなーって逆に思っているのは、前走してくれる人にウエアがどんな色がいいとか、ビブスをどんな色にしてもらうといいんだと。これはちょっと、うーん、たとえばビブスの色をもっと黒いのにして欲しいとか、いろいろあるんだけれども。これは予算がかかることだから、できれば自分がこの色だととってもわかりいいからと自分で持ってきて、着てもらったらどうなんだろうなって。そういうことを感じることはあるんですよ。それからあと、クラブでの貸し出しの無線機、これも自分の、何だろう、命、極端なこと言うと命がかかってるもんだから、自分で用意してこれを使ってくださいってパートナーさんに渡すべきだと思うんですよね。ま、初めて参加してくださってる方にこれを使ってやってくださいってクラブの役員さんが渡すこと、これはしょうがないかもしれないけど。もう2度目からは甘えないで、自分で用意してくる、それぐらいのあれがあったら。やっぱり、そういった道具も買ったんだから、自分も一生懸命やらなきゃって。クラブの方で用意したのをあてがわれれば、簡単にじゃやめた、になってしまうのかもしれない。視覚障がい者の甘えというものをちょっと感じたところはあるんですよ。ま、といって自分が甘えてないかというと決してそんなことなくて、結構甘えさせてもらってるよなーって思っちゃうんですけどね。 白崎:ただあれですよね、いいものに出会えるまで、のところが、やっぱりどうしても。そのー、最初からこれかなと思ってやってみたら、やっぱりどうも自分に合ってないんだとか、あるいは割合こう短期間にいろんなものが出てきて。そうすると、まー、なかなかね、あのー、お金がかかるものだとそうは変えられないだろうというのもあるし、難しいですよね。だから、クラブの方で多少はそういうのを用意しといて、比較できるようにするというのは、必要なことなのかもしれないなっていう気がします。あと、前誘導はパートナーの方の負荷が非常に多いという感じがするんです。僕もやってて、結局正直いって、後ろでどういう風に滑ってるのかっていうことを絶えずチェックしなきゃならないってのは、ものすごい負担になるんでね。そういう意味で、確実にこう把握できる後ろからの誘導というのがまあ、視援奉から始まって。ま、それでもそこに行き着くのには3年4年かかりながら作ったわけで。結局は誘導してる人が、パートナーが、周りをしっかりと把握しながら、その中でもってどういう情報を出していったらいいのか、っていうことをやっぱり考えてやるのが一番確実なんだ、安全なんじゃないかなっていうところが、そのままずっと続いてきている中心になってるんじゃないかな。ただ、今の人の中ではかなり見えている場合だったらば、前を追っかけるということができる訳ですから、その辺を含めると今やろうとしている前後にパートナーがつくという方式は一番理にかなった形なんじゃないかなという気はしますよね。 藤田:そうですねえ、ただその場合は確実にパートナーが二人要るということになる訳ですね。そこでちょっと引っかかるところがあるんだよねえ…。 小平:お話もつきないんですが、そろそろ時間なので今日はこれで終わりにします。会長からご挨拶を一言お願いします。 矢部:今日はほんとに長い時間、講演をありがとうございました。快く引き受けてくださった功三さんに皆さんから拍手していただけたらと思います。 (会場:大拍手) !4.0 《レジェンドたちのLINE座談会》 レジェンド座談会2020年12月19日(LINEビデオ通話にて)  クラブ創設時の話を伺うという事で、2020年12月19日にLINEビデオ通話を使い、当時を知るレジェンドの方々にお集まりいただいて座談会を行いました。これはその時の記録です。 出席者:藤田功三・白崎正彦・小林功弘・成田好一・矢部健三・有賀美由紀 35周年記念誌チーム:清宮幸子・射場眞行・志村好枝 清宮:今日はクラブ創設時の話を色々と伺っていきたいと思いますが、3つのテーマに沿って、話を進めたいと思います。1つ目は、クラブ発足時の色々。2つ目は、スキーでの色々。3つ目は、クラブ運営、ツアー運営での色々です。では、まず白崎さんから伺っていきたいと思います。 白崎:雪に遊んでもらう会っていうのを奉仕団の方がまとめた表が見つかったんですよ。1980年に草津へ行ったというところから始まってるんですけどそこを見ると、どこで何をやったかというのが出てくるんですが、残念ながら一番最初の時には藤田さんもいらっしゃいませんでした。元々は奉仕団がその前に、山中湖でもって雪と戯れるそういうイベントをやろうじゃないかといったら、全然雪がなくて失敗しちゃったんですね。それを何とか取り戻そうというので翌年に、菅平で雪と戯れ遊んでもらう会をやろうと言うことで正月4日から7日にかけて企画をしたんです。ところが、出かけようと思った時に現地から旅行会社の方に連絡が入って、「菅平は今砂塵が舞ってますと。雪は一つもありません」と。ということでだめになっちゃったと思ったら、向こうが配慮してくれて、草津だったら降雪機があってそこだったら滑れなくはないから雪で遊べるよ、ということで急遽横浜駅で草津へ行くことが決まって、行ったんです。だから菅平雪不足のために草津へ変更。雪遊びとスキーということで、そりに乗ったり雪遊びをしたりというのを1980年にやったのがスタートです。スキーといってもその時に参加した視覚障がい者の2、3人がレンタルのスキーを借りて平らなところを滑った、ただそれも、芋を洗うような人混みで行ったので、ボランティアが周りに囲いを作って、10メートル弱を滑れるだけのスペースを作って、それで順番に滑ったというのが一番最初ですね。 でそこから奉仕団のスキーがその翌年から始まったのかな。次の年からは草津のスキー場に行かずに、湯沢新日本スキー場へ行ってやるようになったので、より本格的なスキーが始まったというのが一番最初の形です。 清宮:じゃあ功三さんは80年には参加されてない? 白崎:湯沢新日本で本格的にやり始めた頃に藤田さんが参加してくださったんですよね。 藤田:僕が参加した時は第3回だと思います。まだ雪と戯れる会だったですね。 白崎:そこで一つ問題があるのは、雪と戯れ雪に遊んでもらう会。これは、その頃はまだクラブができてなかったんで、当然スキーをやってたんだけど、名前としては雪と戯れ雪に遊んでもらう会という事でずっとやってる部分があったんです。ですからその時に藤田さんは参加されてると思うんです。僕はだから第4回から行ってると思うんです。 清宮:奉仕団の第4回から? 白崎:奉仕団の4回目から参加したのかな?もっと前だったような気がする。 清宮:じゃあその奉仕団のスキーにやべっちも参加されてたんですかね。やべっち? 矢部:僕は奉仕団のブラインドスキーの第何回かな、わからないです。86年が最初でした。 清宮:じゃあクラブができている? 矢部:85年の1月です。 白崎:だから85年の1月というのはちょうど会を発足される時ですから、たぶん1月か2月に「中八」でそんな話をして、その年の8月には会を開いてます。だからそれで間違いないでしょう。 清宮:いろいろつながりました。やべっちは旅館で、クラブが発足するっていう時の奉仕団のスキーから参加してた。つながりましたね。少しそれますが、その時に奉仕団のレクリエーション部会というのがあったと思いますが・・・。 白崎:その時はまだレクリエーション部会という言い方をしていませんでした。レクリエーション研究会というような感じですね。 清宮:その頃にこうしたレクリエーション活動は活発だったんですか?スキーだけが活発だったんですか? 白崎:スキーだけがということではないです。たぶん1974年、昭和49年に点字図書館からライトセンターに変わってるんですね。で、ライトセンターができると同時にクラブ活動がどんどんライトセンターの中に作られて行くんですよ。だからそういうのを通して、たとえばフロアバレーボールという視覚障がい者のバレーボールのクラブ、STT(当時は盲人卓球)、盲人野球といったスポーツのクラブが開かれてました。ですから視覚障がい者のスポーツは昭和49年以降、50年くらいから色々と開かれてたというのは事実としてあります。 清宮:功三さんややべっちは他に何か参加されてたんですか? 白崎:功三さんは他のクラブにはたぶん参加されてないと思います。ただ、功三さんは奉仕団の方の実行委員の中に入ってよく奥さんや娘さんと一緒にライトセンターへ来て、実行委員としていろいろなアドバイスをしてくれたということがたくさんありますね。 藤田:そう、はい。 清宮:スキーがやりたかったんですね。やべっちはどうですか? 矢部:そうですね。中学生の頃には盲学校の部活動でいろんなスポーツを体験しました。スキーはどうやって続けていったらいいですかと盲学校の先生に相談して、視援奉のブラインドスキーの行事を教えてもらって参加するようになったんですね。 清宮:じゃあ功三さんのようにまだ見えている時にスキーをやっていてという経緯ではない? 矢部:そうですね。ないです。盲学校で教えてもらいました。 清宮:そこで教わって好きになっちゃったんですか? 矢部:そうですね。 白崎:矢部さんは高校生の時に来て、かなり運動神経がいいから僕らの印象にも残ってたんだけどいきなり来なくなっちゃったのね。そしたら大学へ行って、大学で友達を誘って、自分でどんどん周りの人たちに協力してもらいながら技術を高めてたから、しばらく時間が空いてひょっこり来た時に、こっちがびっくりするくらい滑れるようになってたんです。見てスキーを経験していないのにこんなに滑れるんだという風にこちら側が非常にいい勉強させてもらった一つの例ですね。 清宮:やべっちはじゃあ大学の仲間から教わったということですか? 矢部:まあ教わったというほどではないと思います。いろいろ技術的なアドバイスとかは視援奉のブラインドスキーの方が的確だったので。とにかく回数を稼ぐために学生の友達を誘って行ってました。 清宮:皆さんのスキー事情がちょっとわかってきたんですが、またクラブの発足の方に戻るんですけど、その「中八旅館」で始まったというのがこの10周年の「声のきずな」にも残っていて、福島さん、古畑(こばた)さんの名前が出ていますが。 白崎:もう亡くなっちゃったけどね。古畑さんはこのブラインドスキーを始めるのに非常に大きな影響を与えてくれたんです。彼はさっきも矢部さんが言ってたように、神奈川でフロアバレーボールとか盲人野球とか盲人卓球なんかを広げたいと活動していて。そしてアメリカでは視覚障がい者がスキーをやっている、それの指導員の講習会に単身アメリカに乗り込んで、クロスカントリーなんだけど、それの講習会を受けに行って戻ってきて。スキーも絶対できるよっていうことで、いわゆる「雪に遊んでもらう会」から一歩踏み出す一つの大きなアドバイスをくれたんですね。その後も奉仕団でずっと視覚障がい者のアルペンのスキーも、クロスカントリーのスキーも、実行委員としてやってくれてた人です。 清宮:今お話に出た方々は皆さんブラインドということですか? 白崎:いや、古畑さんは七沢のライトホームにいた方で晴眼者。福島さんと藤田さんがブラインド。 清宮:ここで功三さんに伺いたかったのは、楽しいから続けたいという思いが強くてクラブ発足になったと思うんですけど。勝算があるといったらおかしいんですが、これはもうクラブを発足してできるんじゃないかという手応えがあって「やろう」となったんですか? 藤田:自分たちが滑りたいというのはまずあったんですよ。でもそれには晴眼のパートナーがどうしても必要ですね。何とかして集めようということで、小林さんが参加してくれた横浜市の広報横浜に募集を出して。最初の年にはラジオ関東に放送してもらって。ただそれをやってみたら何とか集められそうだなということになって、晴眼者は探せました。最初から続けられるという自信はなかったですけど、でも白崎さんとか古畑さんとか、色々な方の協力があったということです。 清宮:じゃあもうやりたい、だから集めようみたいな感じですか? 藤田:そう。3年間くらい横浜市役所の広報横浜を担当しているところに行って、記事にしてくれとお願いに行きました。それには写真がいるからといって、僕が最初の頃に二人で滑ってる写真なんかはみんな無くなっちゃってます。その時に広報に載せてもらう写真として市役所に置いてきちゃってますからね。 清宮:今その広報の話が出ましたが、広報を見て入ったというのが小林さんだと思っていますが小林さんはボランティアとかスキー、視覚障がい者、どんなキーワードが引っかかって入ったんですか? 小林:えっとね、ちょうどクラブを作った翌年ですよね、あの市政だよりに小さい記事が載っかってたんですよ。1986年クラブ設立の翌年になるのかな?それを見たときにこんな事もあるのかと、ちょっとおっかなびっくりなんですけど藤田さんの所に連絡したら、行きましょうと声をかけて頂いて参加しました。その頃は何をしていいか分からない、障がい者も分からない。しかも視覚障がい者の方がスキーをやっているなんて理解できない中で参加しましたからね。一番最初の時は石打後楽園。そこでいきなり藤田さんと組まされてスキーやった時にもう嬉しかったです。こんなに滑れるの?って。視覚障がい者全盲の人が前にいて、初めてスキーに参加して後ろから声かければいいよって。すごい、こんななんだって。改めて視覚障がい者や障がい者の人を今まで理解していなかった部分も含めて、「あ、スゴイ」って感じた。それからまた後に続いていくのは皆すごいんだから、もっと滑れること楽しめないかなって今に続いています。 清宮:その楽しい、またやりたいなという感じが続いて成田さんを紹介したんですか? 小林:そうですね。白崎さんがさっき言った古畑さんとか文治さんとかはみんな仕事と絡んで参加した人たちだったんですよ。私の場合はまるっきりそういう関係がなく参加してるので、自分が感じたのは、信用できる人を集めないといけないという部分が一つあって。で一番最初のツアーは電車を使って行ってるんですが、確実に座れるということはないんですよ。そこでまず電車で行くなら確実に座って行けなきゃ大変だなと思って、一応旅行会社に勤めている川口を呼んだんです。そして座って行けるように考えてって言ったら彼はやってくれて。それと成田さんを誘ったのは、やっぱりいい人を連れてこなきゃまずいじゃない。だから最初は電車に座らせるってことといい人を集めようということ、いい人をだんだん拡大していけばというのがありました。その次にやったのが広報活動は絶対大事だと思いながら新聞社に声をかけたんですが。だから成田さんはいい人だから呼んだんです。(笑) 清宮:それを受けてちょっと照れちゃってる成田さんはどんな感じで参加してみようと思ったのですか? 成田:40になってスキーやめようと思ってたんです。その時に小林さんからこういうのがあるよって誘われたんです。ボランティアをやったら、すぐにやめればいいやと思っていたらとんでもない話で。スキーシーズン終わると早く来年が来ないかなということになって今までつながってるというのは事実ですね。 清宮:記録だとお二人は入ってから連続で10周年まで行き続けてるんですけど、行きたくて仕方なかったのですか? 成田:雪と暇があったら行けるんですよ。(笑)何だろうね、みんな人がいいっていうか人間が大好きでお酒が大好きで。お酒でつながってるようなもんじゃないですか? 清宮:藤田さんは、いい人入ってきたなっていう成田さんの印象でしたか? 藤田:小林さんが連れてくる方は皆さん良い方ばかりですね。 成田:私最初についたのは功三さんで、さっきの小林さんじゃないけどもこっちはやっとついて行くっていうか。功三さんはウェーデルンでひょこひょこ行くけどもこっちは一緒にウェーデルンなんかやってもついて行ける訳ないんでほとんど直滑降でしたよ(笑)。当時はBluetoothなんてないから、声だけはでかかったんで、後ろから直滑降でついて行って、必死になって、何がなんだかわかんないうちに終わってたというのが最初でしたね。 清宮:じゃあもう功三さんは最初の頃から今に至るまでずっと、レベル高くスピード速く滑るという感じですか? 成田:そんな簡単に言えることじゃないですよ。ついて行くのが大変で。すごいです。直滑降でない限りついて行けなかった。でも楽しかった。何がなんだかわからない、今みたいに講習会もないし、最初に功三さんに言われたのは、「成田さん、何しろしゃべっててよ。しゃべってれば何とかなるから」ということでしゃべらされました。「何しろしゃべっててよ、しゃべってないと怖いから」というのが最初の言葉でした。 清宮:はい、今ちょっと成田さんからスキーの話がでましたので、2番目の「スキーの色々」というところに移っていきたいと思うんですけど。今言っていた様に「しゃべっていればいい」という中で誘導方法どんな感じで変わって行ったのかな?っていうのがあって。功三さんが講演会で言っていたあの、最初は下で笛を吹いているのを頼りに滑って行ったという事を聞いたのですが、第1回とか奉仕団とかどういう感じでスキーを始めたのですか?功三さんと白崎さんに伺いたいです。 白崎:あの笛を吹くってのは最初の頃から、奉仕団のスキーの時から使ってますね。笛を吹いているというのは色んな要素があって、その当時、やっぱり僕ら晴眼者、後ろでついているパートナーも必死なんですよ。後ろから声をかけることに。そうすると、どっかでもってまとまらなければいけないな、って。つまりいきなり長距離を行くのではなくて、まだその頃は刻み、刻みで行くのが多かったんですね。そうするとじゃ、とりあえずどこまで行こうか、どこまで行こうか?っていう形で滑ることが多かったので、その時に笛を吹いていてもらえると、やっぱり方向が分かる。要するにブラインドの人もあぁこっちの方向に向かっているんだなっていうのが分かるわけですね。そして晴眼者もその笛の吹かれている所が分かる。同時に周りの人たちに対して視覚障がい者が滑っている事が分かるという所も、何回かやっている間にそういうメリットがあると分かって笛を使うというのをずーっとやってきました。あの頃はリーダー、サブリーダーが割り当てられますから、サブリーダーの人たちがその目標地に行って笛を吹くというやり方を最初は導入してます。ただ、一人ひとりコースをどういう風にとって行くか、クラブの場合は最初から右・左という風な指示でやるとか。パートナーが後ろで笛を吹くのではなくて、サブリーダーが前に行ってて笛を吹くというやり方をずーっと、かなり長くやって?いました???。それが段々、段々、トランシーバーを使うだとか今はもう拡声器を使ってという形に変わってきていますよね。だからそれはそれだけブラインドの人の滑走技術が上がってきているし、晴眼者の方のパートナーをしている人たちの技術も上がってくる。もっと確実な指示が出来るようになってきている、というのが変わってきてるんじゃないかな、と思います。ま、はっきり言って一番最初に奉仕団がやり始めた時に、まさか藤田さんみたいな人が来るとは思っていなかった。正直な話。奉仕団が始めた4回目の時にブラインドスキーでもやっぱり検定があってもいいんじゃないかっていう事で、1級〜5級の検定をその級を決めて、その目標に向かって皆滑ろうよ、ということでやったんですよね。そしたらその級を作った頃に藤田さんが来て、藤田さんの滑りを見てたらとてもその級の中に納まらない、我々が予想した級が。もうその上のはるか上を行っちゃったっていうので慌ててその2年後にはですね、1級〜5級までだったのが1級〜8級までに上がって行ったんですね。最初の頃はやっぱりスキーを経験していた人よりも初心者の人の方が割合が多かった。それと講習とかそういうのもかなり早くから(ブラインドじゃなくてパートナーのね)やってきています。ただ、クラブが出来た頃はそうでも無くなりましたけれども、クラブが出来る前まではだいたい晴眼者でもそんなに滑れる人いなかったんだよね(笑)だからほんとに滑るので精一杯でしたよね。??????????????????????????????????????????????????????????????????????????????? 清宮:でも最初にちょっと伝えたかと思いますがスキーが割と全盛期という感じの時期ですよね?スキーが賑やかに、スキー場がもうギューギューという状況。だから成田さんや小林さん、志村さんや有賀さん達もそうだと思うんですが、ご自身がスキーを盛んにやってた最中ですか?成田さんはどうですか?スキーをものすごくやってた時に参加していたのですか? 成田:そうね。自分は3交代勤務をやっていたんです。そうすると夜勤明けでそのままスキー場へ行って。で行った次の日休みだから平日にスキーが出来たんで、並ぶことを知らないでリフト乗って滑って降りてくるとまたすぐリフトが待ってて、乗ってまたリフトの上で休憩するような、そんな滑りだからね。すごく恵まれて滑っていたっていうのが事実ですね。 白崎:成田さんが一番最初にスキーをやったのっていつでしたか? 成田:えーっともうハタチの時です。 白崎:あ、俺もおんなじだ。(笑) 成田:高校卒業18歳で仕事始めて、2年くらいやって、スキーやっている人がいて2m30pの長い板借りて。 白崎:そうそうそう。 成田:それで石打にやたら指定があったんで石打、鈍行で。そのうち車で行ったりして。今考えたら足腰もたないかもしれないけれども、でも楽しくて楽しくて、ほんとリフトの上で休憩するっというのが定番でしたね。 清宮:ちょっと前後して申し訳ないんですが、そういった全盛期の時にクラブが始まっていて、私だったらそんな混雑したスキー場で誘導できない気がするんです。きっと当時はもっとリフト待ちとかがすごかったと思うのですが、そういう中での苦労、スキーを進めて行く苦労というのは何かありましたか? 白崎:どうなんだろうな、そんなに苦労していないと思うよ。いやもちろんやる度に、あ、これもうちょっと皆でもって勉強しなければならないな、というような事はしょっちゅうありましたよ。だから夜のミーティングって物凄く大事なんですよね。何があった?どうなった?じゃぁどういう風にしようか?っていうような事を皆でもって共有して。だってそういうのが最初からあったわけではないから。我々が作って行かなければならないっていう事が沢山あったんで、じゃあこういう風なやり方をしようか?っていう打ち合わせや、終わった後の反省っていうのはものすごく大事だったと思うのね。それは技術的な事だけじゃなくって、組み合わせだとかそういった事も、やっぱり絶えず考えなくてはいけない。要するになんて言うんですかね、ブラインドとそれからパートナーとの相性だとかそういった事も考えなきゃいけないってのも、それは技術的な事の一つとして出てくるじゃないですか。 清宮:私にとって最初に参加した時の研修をしてくれたのは志村さんだったんですけれども、こういう午前中の研修とか、あとガイドラインっていうのは最近出来たと思うんですけど。今は初参加でも無理なくすっと出来る状況にはなってますよね。志村さんはこういう部分に、長く関わってますよね?志村さんどんな感じで研修班を今やっているのでしょう? 志村:私が入った時には、常にパートナーはブラインドの人に教わりながら誘導の仕方っていうのを教えてもらっていました。で、サブリーダーになれば笛を吹かなければならないんですけれど笛も吹いていられない。あの時こういう研修があったらいいのにな、っていうのを考えて今やっています。とりあえず促成栽培、早く一人前になってもらえるように、要点だけで終わっちゃうの。ただ入ってきてくれる人たちの足前が大変いいので比較的皆さんスクスクと育ってきてくれているのではないかな、と思います。 清宮:同じような時期に有賀さんも入ったと思うんですが、有賀さんはどうでしたか?ブラインドスキーを始めた有賀さんの経緯も聞いてもいいですか? 有賀:経緯ですか?えっと経緯は、仕事でスキーをやってて、転職してスキーの仕事が無くなってたので。それともう一つボランティアをやりたいっていうのがあって。それでスキーとボランティアで今のクラブが見つかりました。誘導はとにかく自分が滑るのとは全く違ったのでとにかく大変なのと、人にぶつからない様に、前・後ろ見ながらやらなければいけなかったので、まったく自分で滑る感覚とは違った事を覚えています。 清宮:割と創設の頃からいた小林さんはこの誘導法を初めのころからやっていて戸惑い等ありましたか? 小林:僕らまるっきり初めてだったんで、人に教えてもらう、というのも白崎さんとかに教えてもらうだけだったんで、ただただ本当に言われたとおりにして行く、っていう事に夢中でしたね。笛にむかって行く、後ろから声をかける、それに忠実に出来ればいいという位で、自分が何をしようかっていう所まで考えることは出来なかったんですね。それとボランティアをするっていう考え方が今と違うと思うんですよね。今の人たちはボランティアも比較的色んな形があって活発になっているから、障がい者と接することも、障がい者を理解することも、障がい者と何か一緒にやろうということも今は楽に入れるし、もっと自由にいい考え方を持っているんじゃないですかね?俺なんか本当に言われたことをどうやって守るかというので精一杯でした。 清宮:今の方が柔軟な感じという事ですか? 小林:色々情報がいっぱいありますよね、今の人は。耳の聞こえない人はこうだ、目の見えない人はこうだ、足の不自由な人はこうだ、情報が一杯入って来る。 清宮:そういう時代背景とかも変わってきて参加する方の感じも変わってきたという事ですか? 小林:そうですね、今のかたの方がボランティアにとっては入りやすい環境じゃないですかね? 白崎:あのね、昔最初のころ、これは丸沼のスキー場でもって僕らうちのクラブがやってた時に、丸沼のパトロールと喧嘩しちゃったんだけれども、滑ってる最中にぶつかりそうになったのを見ていたパートナーが、なんでこんな所に視覚障がい者を連れてくるんだ、という風な話し方をされた。(これは毎回よく紹介するんだけれども)最初のころはそういう環境だったのよね。障がい者は外に出て、そんな事をしちゃダメよ、というのもあったんだと思う。だけどそれはどんどんどんどん変わってきているから、やっぱり見方が変わってきている。だけど本当に皆がそこまで理解してくれるようになったかというと、まだまだダメです。はっきり言って。パラリンピックだとかそういう事でもって視覚障がい者の人たち、障がい者がスポーツをやるってのはもう当たり前なんだという風に思ってくれてますが。じゃぁ具体的にその為にその人たちがどういう風に頑張っているのか、苦労しているのかという事までは、ほとんどやっぱり考えてない。見えてないってのが多いですよね。だからそういう意味では、まだまだ。もっともっと皆が一緒になって協力してやっているというのを皆さんに知ってもらう必要があるんだろうなと思います。 清宮:そういう中でもうちのクラブは10周年の記録にもあったんですが、最初の頃から、お手伝いすると言うよりは一緒にスキーを楽しむというスタンスが伝わります。次に3番のテーマに移って行くんですが、クラブの運営という面で、功三さんの記録に、まずは当事者がこれをやっていくというようなことが書いてあったんですね。きっと第1回、創設の時に、まずは当事者のブラインドの人たちが進めて行って今の形になったと思うんですが、第5回から「実行委員方式」でクラブのツアーが始まっています。功三さん、クラブを作り上げていってる段階の経緯、このあたりについてちょっとお話聞いていいですか? 藤田:はい。(功三さんの奥様ご登場(笑))なるべく自分たちでやって、頑張っていたんですが例えばライトセンターに勤めていた岡崎くんや視覚障がい者が中心になって、分からない所は白崎さんに色々相談してやっていました。視援奉がやっている実行委員会方式、この方式にした方がきっと会がうまく回っていくんだろうなぁという事で、第5回から実行委員会方式になって行きました。それまでは本当に役員が頑張ってやっていたんですが、かなり時間もかかるし無理もあり、段々会が大きくなるに従って、そういう考えが膨らんでいった経緯があります。 清宮:以前功三さんに少しお話しましたが、通信手段について、例えばこんなLINEの通話なんて出来なかったと思うし、パソコン、携帯も無い。そういう中で苦労はありましたか?とこの前ちょっとお伺いしたら「やぁ、そんな無かったな」みたいな事でしたが、どうでしょうか?小林さんや成田さんも一緒に実行委員とかやっていたのですか?なにかそういうご苦労とかありました? 成田:無いです。(笑)手伝った記憶ありませーん。私は。ただ言われた事をこれやって、ってのを「はいはい」って。すごく引っ込み思案だから前に出る事は無かった。 小林:今、志村さん達や新しく入ってきた人が細かい事まで注意してやっているなぁ、と感じますね。自分たちは、無我夢中って言ったら大げさかもしれないけど、目の前の事片付けるのにいっぱいだったんじゃないかなぁ。 成田:そうすると自分はまだ誘導だけやっていて、何か実行委員とかやった記憶は・・・私はありません。志村さん達が入ってきて、志村さん尊敬してるんだけど、カルテ作ったり班分けとか色々やってくれたんでね。うーん、ずいぶん変わったな。あのカルテから。それから夜のミーティングにしても、飲み会じゃないんだよ。(笑)すごく変わったなと。 清宮:じゃぁ度々、お名前が出ている志村さんはやっててどうですか? 志村:いやいや、そんなの別に・・・。別にそんな大層な事でもなく。たださっきも言ったけど、私の場合は本当に入った時のレクチャーが無かったの。こんなんで、「右・左、言えばいいから」って。入ったものの、いやこれじゃぁ大変で、さっきも言ったけど、研修のノウハウだけでも教えたらいいんじゃないかな?って私は思って・・・。はい。大層な事でもございません。本当に誘導する人のレベルが大切だなって。 清宮:じゃぁ35年の中で色々試行錯誤して今に至り、私は今とても良い環境でスキークラブに参加している、という事ですね(笑)ちょっと話が変わりますが、私は今イベントを担当していて小林さんや成田さんにも協力してもらって、ここ最近のイベントもやっているんですが。記録を見ると第2回目とかすごく色んな事をやってるんですね。スキーにまつわる事、直前の研修の様な。最初の年にスキーの準備・トレーニング・スキー用具の取り扱い方・スキーウェアについてっていうのを秋と冬にやっていたり。次の年は身障者スキーとボランティア・最近のスキーテクニック・シーズンに備えてのトレーニングとか。その翌年からは必ずハイキングに行っていて。色々やってるんですが、このあたりはどなたか発案して行ったのか、それともこれやろう、あれやろうってどんどん盛り上がって行ったのかどんな経緯だったんですか? 藤田:視覚障がい者の中から、こういう事やってみようかと役員会の中で話し合って、みんな白崎さんにお願いしちゃった。 清宮:それに白崎さんが応えたのですか? 白崎:そうですね、僕の方がこれやりたいから、ではなく、障がい者の方からこれやりたいと言われて、しょうがないから調べて(笑)。例えば本を見て、こういうのは本として出ているけれども、視覚障がい者の人たちには伝わってないなとか、そういった事を考えるから、まぁ自分の勉強にもなるって、どんどん取り上げる事が出来たんじゃないかなと思いますよ。で、最初の頃、ほんと一番最初にクラブになった頃には、盲学校の先生だとかそういう人達も結構いて、色んな事を提案したり苦労して。でもやっぱり慣れてなくて実行委員会の事をやりだした頃からシステムが、段々しっかりしていったんじゃないかなと思うんですよね。ただ最初の頃は、広報というかお知らせだとかについては、印刷物作ったりそういった事も頑張って皆やってましたよね。で特に大里君。彼がライトセンターにいて、それでパソコンが使えて。実はその当時からパソコンの使える視覚障がい者がいたんだよね。だから最初の頃の資料だとかはずいぶんやってくれていたのです。最初の5年はまだ皆初めての経験をしながら、そこを乗り切れた。もうその頃になるとまぁ小林さんもそうだし、他にも晴眼者の中でもってどんどん、サポートする人も出てきました。でもあくまでも、中心は視覚障がい者の人たちだよ、という考え方としては徹底していたのかな。皆そういう風に発言してくれてたんじゃないかな? 清宮:私が入った時にはもう小林さん達がやっていた影は無く、私にとってはやべっちとかが色々進めている状況なんですが、やべっちはこう色々な役割をやるようになったのはどのくらいからですか? 矢部:僕は視援奉のブラインドスキーが2000年まで続いていたのでそちらの方でずっと実行委員をしていたので、クラブの方の役員とか実行委員会にはお手伝いできませんというスタンスでしたね。一参加者。数少ないお手伝いがクラブの10周年記念でキロロに行った時かな1996年。その時に10周年記念のツアーの実行委員というのをやらせて頂きました。今でも覚えているのが10周年の記念のツアーでキロロでパーティをした時に一緒にそのパーティの司会をしてくれたのが有賀さん。有賀さんはもうすっかり忘れてるかもしれないけど。 有賀:え?お、覚えてますよ。(笑) 清宮:じゃぁ次も記念のパーティがあったら有賀さんが司会ですね。ではやべっちは実行委員を本格的にやるようになったのはいつ頃からなんですか? 矢部:えーっと2013年かな? 白崎:役員の中に伊藤信三さんていう方がいらして、副会長してお手伝いしてくださったりしてた。残念ながらお亡くなりになってしまいましたが。本当に細かく面倒みてくれた人がいましたね。今はどんどん役員やってくれる人が出てくる、ってまではいってないかもしれないけれど、前よりは苦労しなくてすむ時代になっているのかな、という気はしますね。まぁ通信手段も色々あるからね。そういう意味では連絡も取りやすくなっているし。 清宮:こうやってクラブが35年続いてきた中で困り事や、クラブ存続の危機的な事ってあったんでしょうか?パートナーが不足とか、大きな怪我とか。 白崎:でもそれはいつもあるでしょ。やっぱりね、それはちょっと気を抜いてしまうとそういう状況って出てきてしまうんじゃないかなって思います。今回もすごく難しいと思っているのはコロナがどういう風な影響をスキーに与えるのかな、というのもちょっと今心配しています。だからその辺を考えて行かなければならないのかなって。 清宮:皆さん何かこの辺までで話足りない事とか、このクラブの発足から、スキーでの色々や、クラブの運営の色々でご意見伺いたいと思うんですが、小林さんからいいですか? 小林:あのー誤解があったら悪いんだけど、当初私が入った頃、クラブが出来て2年目なんですよね。やっぱりブラインドの人がすごくスキー行きたがってた。当たり前ですよね、ブラインドスキークラブだから。クラブの行事に対してもクラブの役員でもってる、っていうんじゃないけれども、何かをクラブでしなければいけないっていうのがすごく強かったなと最初の頃は思います。行事に参加するのも時間をかけて大変な思いして来ていたり、スキーに行きたいという情熱が伝わって来ていたんですよね。誤解をうまなきゃいいんだけども時代が変わる中で、ブラインドの人たちも一生懸命やるっていう気持ちは変わらないんだろうけれども、当時の人は悲壮感がある位に参加していた。あのボランティアの数が少なかったからでしょうね。その出来たばっかりの頃ですから。スキーに行きたいっていう条件が、ボランティアが何人集まったら一人行ける、10人集まったら3人いけるとか、集めた人数の数でブラインドの方がスキーに行けたんですよ。そういうのがその当時の方がブラインドの人は大変だったんじゃないかな、と今でも思うところですね。今も段々ボランティア集めるの大変ですけれど、やっぱり当時のボランティア、パートナーを集めるというのが大変だったから、それだけ皆の気持ちが強かったのかな、というのは今は感じますね。 清宮:私は功三さんといつだったか電車の中でお話しした時に、私がユースのツアーに参加した時に、パートナーが不足していていて、出来るか出来ないかという事があって、功三さんが珍しく強い口調でね、「やっぱり滑りたいって思ったら、自分たちでなんとかしなきゃ!」と仰ってたのをはっと思って。功三さんの原点がそれなんだな、と思っていたのですが、小林さんの今の話を聞いてなるほど、って思いましたね。では成田さん何か、いいですか? 成田:子育てや仕事で忙しくて来れない人もつなぎ留めておく為にも、イベントももっと充実していかないと。ただ会費払ってるだけじゃなく、ちゃんと払ってくれてるんですからもう少し、私としてはスキーは行かれなくてもイベントなどで皆が日帰りだったら行けるよ、っていうそういう機会もっと充実して作って行けたらいいなって思ってます。で、個人的に思うのは自分が変わったな、というのは小林さんのおかげ、藤田さんのおかげ、皆さんスキークラブのおかげだと思ってます。ほんと仕事の時には、こんなにしゃべらなかったです。無口な男で。寡黙な男っていうか。それが藤田さんに会って、「なにしろ成田さんしゃべっててよ」と言われて。(白崎:成田さん、お母さんの血を引いてるんですよ)それはあるかもしれない。で、誘導する時にも「成田さん、肩に力入って、こんな力入ってるじゃーん、疲れちゃうよ」って。歩いてる時も後ろからね、信号待ちしていると肩揉んでくれたりしてね・・・。藤田さんにはね、一から十までっていうかな、まだ十まで達してないけど教わってここまで役にたってるかどうか分からないけれども。藤田さん、本当に感謝しています。ほんとおしゃべりになりました。おしゃべりになってありがたいな、と。それから小林さんと白崎さんとほんとに感謝・・・。 清宮:小林さんと成田さんの友情を確認しあう会でしたね。 成田:私は小林さんって呼んでます。同期だけれども頭の感じが。(笑) 清宮:そういう関係を確認しあう会になりました(笑)で、やべっちお願いします。 矢部:なんて言ったらいいんでしょう、皆さんの貢献のおかげでこのスキークラブがあるんだなってのが、ひしひしと伝わって来ています。 清宮:このトークを録音してくれているいばっちは、参加できますか? 射場: 2008年に初めて参加して、まぁ一回行ってこんなのするわけないやと思って参加したんですけれども、第一印象は、やたら飲兵衛が多かったっていう事ですね。で、第1回目に参加した時に同室だった成田さんに具体的にどうやってブラインドの人を誘導するか、だとかそういうのを教わったのがすごく有難かったです。この場をお借りして、成田さん、有難うございました。以上です。 清宮:はい、では白崎さんいいですか? 白崎:僕にとってスキークラブだけでは無いんですけれども色んな事をやっている一番の目的は、実は最初のころはブラインドスキーをどうやって、やっていったらいいのか、っていうのがライフワークとしてあったんだけれども、そこから広がって今は、いかにブラインド・視覚障がいというのを正しく皆さんに理解してもらうためにはどうしたらいいのかなというのが非常に大きな課題になっている気がするんですね。たまたま、そういう意味ではまずクラブの人たちに正しく深く理解してもらえるようにしたいな、というのはあるし、特に中途で失明する人たちにとっての大変さだとか、それをどうやって支えていくだとか難しいな、というのがあるんですね。で、どういうわけかスキークラブもやっぱり中途失明の人が多いんでその辺をもっともっと理解しておく必要があるんじゃないかな、と感じることが多いです。だから最近は、今はどちらかというともっともっとそれをどういう風に皆さんに伝えていけるのかな、って考えている自分がいますね。はい、以上です。 清宮:では最後のベタな質問ですが「あなたにとってブラインドスキーとは?」 藤田:私にとってはまぁ何にしても、もう晴眼の方たちに楽しませてもらってる、それだけです。感謝。以上。 清宮:では功三さんの次は小林さん。 小林:さっきも話したんですけどやっぱり初めは不安だった。参加した時の藤田さんと滑った時のショック、驚き。今の僕のブラインドスキーに対する考え方はそこから始まってると思います。クラブの中で企画・イベントをやってきたんですけれど、そういう事も含めて皆が参加できるもの、そういうものを企画しながらブラインド・視覚障がい者というものを理解してもらっていけばいいかなと思います。まぁこのクラブに入って一番良かったって今でも思うし、私の中に障がい者に対する優しい気持ちが出来たのかなと思います。以上です。 成田:うーん、自分にとってはやっぱり宝物ですよ本当に。皆仲間だし、ずっとやっていきたいと思います。このクラブが何で存続できてるかって、先ほども射場さんが言ってた酒が好きだからそれが第一じゃないかな、と。私は思ってます。あとなんかしらないけれども離れちゃうとまたね、急にすぐに会いたい、っていうのが事実です。これからもう少しね、ツアーに出れない人にもイベント等、協力出来たらというように思っています。本当に皆さん、今までありがとうございました。 清宮:はい、じゃぁ志村さんお願いします。 志村:そうですね 私10周年の「声のきずな」を振り返ってたんですけど、そこにも書いてあるんですね、私の夢、結局ねただスキーが好きな人たちが集まってきて気が付けば視覚障がいも晴眼も関係なくね、皆でこうやって楽しくスキーができる。本当に仕事も違ければ、年齢も違ければ、いろ〜んな人がゴチャゴチャになってごった煮の面白さというか、あの普通だったらば出会わなかっただろうな、と思う人たちとも出会えて色んな話もして、本当にいい所と巡り合ったなというのは本当につくづく思ってます。きっとここのクラブに入らなかったら、巡り合えないであろう、大酒呑みであるとかそういう感じでいっぱいいますけれどうーん、なんて言うんでしょう。本当に素敵な人たちと出会わせていただいたと本当に思っています。まぁこれに懲りずにまた今後とも宜しくお願いしますっていう所でしょうか。私も自分の引き際を考えたりしてるんです、どうしたらいいんだろう。ただまだ全然大丈夫。何かしなきゃいけない、出来るだけのことは頑張りたいと思います。 清宮:ではやべっちお願いします 矢部:僕にとってのスキークラブは、大切な場所、ですね。スキーが好きで、まぁそれが続けられたらって思って参加し続けるようになりましたけれども皆さんが仰るように障がいあるないに関係なくスキーを一緒に楽しみ、お酒を一緒に楽しみ、和気あいあいと交流が出来る場っていうのが本当に大切な場だなぁと思ってます。はい。 清宮:白崎さんは先ほどがまとめのような感じで飛ばしてしまいましたが、「あなたにとって」はいいですか?ブラインドスキーとは?白崎さん。 白崎:ブラインドスキーはねー。結局あれだよね、僕が赤十字で仕事をするようになってる間、やってきている間、ずーっとブラインドスキーだけは繋がっているし、今も繋がってる。これからも多分繋がっていくんじゃないかな、と思うと、いつまで続くかな・・多分大分頭の方も体の方も弱くなって来ているからなんとか持たせなきゃいけないなって。それだけ。 清宮:有賀さん、有賀さんにとってブラインドスキーとは? 有賀:えーっとブラインドスキーは血の繋がらない親戚の様な感じがしてまーす。(笑)これからも甘えますんで宜しくお願いしまーす。 清宮:血の繋がらない親戚、名言です。では、いばっちお願いします。 射場:私にとってこのスキークラブっていうのは家庭平和の為のものです。現役の頃は亭主元気で留守がいい生活を妻に与えてましたから定年後、朝から夜までベッタリ家にいるんですよね、そうすると当然煮詰まっちゃうんで、例えば実行委員とか、スキーツアーとか家を空けるとすごく女房の機嫌がよろしくなります。そういう意味では私にとっては非常に失いたくない、大切な場であると今も思っております。ありがとうございます。 清宮:初めまして。功三さんの奥様、こんなスキーが大好きな功三さんどの様に見守ってたんでしょうか? 奥様:いえね、どっから言ったらいいか? 白崎:だって奥さんいなかったら功三さんスキーに夢中にならなかったんだもん。 清宮:そうなんですか? 白崎:スキーに夢中になったのか、奥さんに夢中になったのかその辺が僕はよく分からない。(笑) 藤田:それは絶対にスキーです。 清宮:それは絶対照れ隠しですね。  突然ご登場頂きまして有難うございました。はいちょっと2時間近く皆さんにお話しいただきました。こういう形ではなくまた皆さんで顔を合わせて集まれるようになりましたらその冊子を読んだ感想などを、色々お話しできたらなと思っています。皆さん今日はありがとうございました。 (皆でパチパチ) !5.0 《クラブの歩み(年表)》 期 年度/会長 年 月日 内容 開催場所 宿泊 特記事項 1 1985年度/藤田功三 1985 8/18 神奈川県視覚障害者スキー協会(クラブ)発会式 第1回定期総会 ライトセンター※1 10/6 10月例会 スキーの準備トレーニング ライトセンター 12/8 12月例会 スキー用具の取り扱い方、及びスキーウエアについて ライトセンター 1986 2/1〜2/2 第1回スキーツアー 岩原スキー場 岩原高原ハウス 2 1986年度/藤田功三 1986 5/11 第2回定期総会・懇親会 ライトセンター 6/8 6月例会 身障者スキーとボランティア ライトセンター 8/10 8月例会 最近のスキーテクニック ライトセンター 10/5 10月例会 シーズンに備えてのトレーニング ライトセンター 12/14 12月例会 ライトセンター 1987 1/30〜2/1 第2回スキーツアー 石打後楽園スキー場 民宿銀富士 3 1987年度/藤田功三 1987 4/5 第3回定期総会・懇親会 ライトセンター 8/23 ハイキング 津久井・城山(津久井城跡) 10/14 懇談会 12/13 12月例会・忘年会 ライトセンター 1/17 ボランティアとの顔合わせ ライトセンター 1988 1/29〜1/31 第3回スキーツアー 石打後楽園スキー場 民宿銀富士 4 1988年度/藤田功三 1988 5/15 第4回定期総会・懇親会 ライトセンター 6/12 盲人卓球体験 七沢ライトホーム※2 雨天によりハイキング中止のため 8/21 8月例会 ベストスキーによる スキー技術勉強会 ライトセンター 10/2 ハイキング 菩提〜桜沢林道〜昼食〜芦沢林道〜大倉〜 12/18 12月例会・忘年会 ライトセンター 1989 1/20〜1/22 第4回スキーツアー 石打後楽園スキー場 民宿銀富士 5 1989年度/福島悟 1989 4/16 第5回定期総会・懇親会 ライトセンター 6/18 バレーボール大会 七沢リハビリセンターの体育館 9/3 アスレチック&バーベキュー 東丹沢グーリンパーク 10/1 10月例会 スキーあれこれについての学習 横浜市健康福祉総合センター 1990 1/7 1月例会 ツアーに向けてのオリエンテーション ライトセンター 1/19〜1/21 第5回スキーツアー 丸沼高原スキー場 民宿おおくら荘 3/4 ツアー参加者反省会 ライトセンター 6 1990年度/福島悟 1990 4/15 第6回定期総会・懇親会 ライトセンター 7/15 7月例会 視覚障害について ライトセンター 8/31 朝日新聞に記事掲載「応援待ってます」 9/30 ハイキング 東丹沢グリーンパーク 雨で中止 12/2 12月例会 ツアーオリエンテーション・忘年会 ライトセンター 1991 1/25〜1/27 第6回スキーツアー 丸沼高原スキー場 民宿おおくら荘 3/10 ツアー参加者交流会 ライトセンター 7 1991年度/福島悟 1991 5/12 第7回定期総会・懇親会 ライトセンター 6/2 ハイキング 渋沢 中止:河原でお昼を食べた 1992 1/12 1月例会 ツアー事前説明会 ライトセンター 1/24〜1/26 第7回Aコース スキーツアー 丸沼高原スキー場 民宿おおくら荘 2/23〜2/25 第7回Bコース スキーツアー エコーバレースキー場 ペンション森の音楽家 3/15 ツアー参加者交流会 ライトセンター 8 1992年度/福島悟 1992 5/10 第8回定期総会・懇親会 ライトセンター 5/31 バーベキュー 東丹沢グリーンパーク 11/15 11月例会 ブラインドスキーヤーとパートナーの為のステップアップ講座 ライトセンター 12/20 12月例会 事前説明会 ライトセンター 1/13 朝日新聞に記事掲載「目の代役になってください」 1993 1/29〜1/31 第8回Aコース スキーツアー 丸沼高原スキー場 民宿おおくら荘 2/28〜3/2 第8回Bコース スキーツアー エコーバレースキー場 ペンション森の音楽家 3/14 ツアー反省会 ライトセンター 9 1993年度/藤田功三 1993 5/9 第9回定期総会・懇親会 ライトセンター 11/7 活動説明会 ライトセンター 12/4 早く滑りに行きたいぞパーティ’93 ライトセンター カサドール藤沢南口店 1994 1/16 1月例会 事前説明会 ライトセンター 1/28〜1/30 第9回Aコース スキーツアー エコーバレースキー場 ペンションエスポアール NHKラジオ第2放送「視覚障害の皆さんへ」収録 2/20〜2/22 第9回Bコース スキーツアー 丸沼高原スキー場 シャレー丸沼 3/6 NHKラジオ第2放送「視覚障害者の皆さんへ」にてクラブ紹介放送 3/13 ツアー参加者交流会 反省会 ライトセンター 10 1994年度/藤田功三 1994 5/29 第10回定期総会・懇親会 ライトセンター 7/9 早く滑りに行きたいぞパーティ’94 カサドール大船店 9/15 バーベキュー及びカラオケ 鎌倉 12/4 12月例会 スキー技術研修会&パーティ’94冬 ライトセンター カサドール藤沢南口 1995 1/27〜1/29 第10回Aコース スキーツアー エコーバレースキー場 ペンションエスポアール NHK取材スタッフさん同行・収録 2/10 NHK教育テレビ「週刊ボランティア」で放映 2/19〜2/21 第10回Bコース スキーツアー 丸沼高原スキー場 シャレー丸沼 3/5 特別企画「タッチ・ザ 飛行機」 日本航空羽田整備工場 3/12 交流会 反省会 ライトセンター 11 1995年度/岡崎学 1995 6/4 第11回定期総会・懇親会 ライトセンター 8/20 カヌーフェスタ相模川 河原での親睦会 相模川 9/9 10周年記念パーティ 横浜東急ホテル 12/2 研修会 救急法講習及び早く滑りに行きたいぞパーティ’95 ライトセンター 相鉄ライフ二俣川 1996 1/26〜1/28 第11回Aコース スキーツアー 丸沼高原スキー場 シャレー丸沼 3/2〜3/5 第11回Bコース スキーツアー キロロ ホテルピアノ 10周年記念 3/16 ツアー参加者交流会 横浜麦酒館コープランドハウス 3/31 10周年記念誌「声のきずな」発行 12 1996年度/岡崎学 1996 6月 第12回定期総会・懇親会 ライトセンター 12月 研修会・忘年会 ライトセンター 1997 2月 第12回スキーツアー 丸沼高原スキー場 シャレー丸沼 宝台樹にも行った 13 1997年度/藤田功三 1997 6月 第13回定期総会・懇親会 ライトセンター 12月 研修会・忘年会 ライトセンター 1998 2月 第13回スキーツアー 丸沼高原スキー場 シャレー丸沼 14 1998年度/藤田功三 1998 6月 第14回定期総会・懇親会 ライトセンター 12月 研修会・忘年会 ライトセンター 1999 2月 第14回スキーツアー ブランシュたかやまスキー場 ジョイハウス 15 1999年度/藤田功三 1999 6/6 第15回定期総会・懇親会 ライトセンター 8/1 花火大会 葉山 9/23 ハイキング 大山 11/27 研修会 救急法・忘年会 ライトセンター 2000 2/5〜7 第15回スキーツアー 丸沼高原スキー場 シャレー丸沼 16 2000年度/藤田功三 2000 4/9 反省会&お花見 東神奈川〜中華街 6月 第16回定期総会・懇親会 ライトセンター 10/15 ハイキング 広沢寺〜丹沢方面 12/3 研修会 救急法・忘年会 ライトセンター 2001 2/17〜19 第16回スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジ星野 17 2001年度/初瀬川正哲 2001 4/8 反省会&お花見 6/4 第17回定期総会・懇親会 ライトセンター 6/4 「かながわブラインドスキークラブ」に名称変更 10月 ミカン狩りとバーベキュー 根府川 12月 研修会 誘導法勉強会・忘年会 ライトセンター 2002 2月 第17回スキーツアー 丸沼高原スキー場 シャレー丸沼 18 2002年度/初瀬川正哲 2002 4月 反省会と懇親会 ライトセンター 6月 第18回定期総会・懇親会 ライトセンター 10月 ハイキング 大山 12月 研修会 誘導法・忘年会 ライトセンター 2003 2/15〜17 第18回スキーツアー 丸沼高原スキー場 シャレー丸沼 19 2003年度/初瀬川正哲 2003 4/6 ツアー反省会・懇親会 東林 ホームページ公開準備 6/8 第19回定期総会・懇親会 ライトセンター〜笑笑 20周年委員発足 10/12 秋のハイキング 箱根湯本 ホームページ誕生 11月 カヌー体験と芋煮会 相模川 12/7 研修会・忘年会 ライトセンター〜うまうま 2004 1/24〜26 第19回スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッヂさんらいず 20 2004年度/初瀬川正哲 2004 6/6 第20回定期総会・懇親会 ライトセンター〜仕立屋食堂 10/2〜3 20周年記念 温泉とハイキング バスツアー 信州茅野温泉 菱野温泉 常盤館 12/5 研修会 救急法・忘年会 ライトセンター 2005 1/22〜24 20周年記念スキーツアー 富良野スキー場 新富良野プリンスホテル 21 2005年度/初瀬川正哲 2005 4/10 20周年記念パーティ ベイシェラトンホテルタワーズ 4/10 Tシャツ 完成 販売 〃 5/29 第21回定期総会・懇親会 ライトセンター 10/8 ハイキング 鎌倉 12/4 研修会・忘年会 ライトセンター 2006 1/21〜23 第21回スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 22 2006年度/初瀬川正哲 2006 6/11 第22回定期総会・懇親会 ライトセンター〜さくら水産 10/22 ハイキングとスワンボートレースBBQ露天風呂入浴 三浦半島ソレイユの丘 12/3 研修会 スポーツストレッチ・救急法・忘年会 県民活動サポートセンター※3〜うまうま 2007 1/27〜1/29 第22回スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 23 2007年度/岩崎宗治 2007 4/8 ツアー反省会・懇親会 元町公園、港の見える丘公園〜東林 6/8 第23回定期総会・懇親会 ライトセンター〜はなの舞 10/21 ハイキング&温泉 秦野〜弘法山 12/2 研修会 誘導法について・忘年会 ライトセンター〜アントニオ 2008 2/16〜18 第23回スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 24 2008年度/岩崎宗治 2008 4/6 ツアー反省会・お花見 お花見 中華街 6/14 第24回定期総会・懇親会 ライトセンター〜海登 10/19 ハイキング 石垣山一夜城跡と生命の星・地球博物館 12/7 研修会 誘導の基本と体力チェック・忘年会 ライトセンター〜アントニオ 2009 2/14〜16 第24回スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 25 2009年度/岩崎宗治 2009 4/5 ツアー反省会 東林 6/14 第25回定期総会・懇親会 ライトセンター〜海登 10/11 ハイキング 城願寺・城山山頂・湯河原温泉 12/6 研修会 点字の体験、年賀状を出そう・忘年会 ライトセンター 1/8〜10 25周年記念 スキーツアー 糠平温泉スキー場 糠平温泉観光ホテル 2010 2/13〜15 第25回スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 26 2010年度/岩崎宗治 2010 4/4 ツアー反省会・お花見 5/30 第26回定期総会・懇親会 ライトセンター〜はなの舞 10/3 ハイキング 箱根 しっかり歩きました 12/5 研修会 AED・忘年会 ライトセンター〜アントニオ 2011 2/13〜15 第26回スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 27 2011年度/岩崎宗治 2011 4/3 お花見・懇親会 東日本大震災のため中止 6/5 第27回定期総会・懇親会 ライトセンター〜和民 10/23 ハイキング 厚木 日和山 台風のため前日に中止 12/4 研修会 震災支援に関する研修・忘年会 赤十字県支部※4〜四五六菜館 2012 2/11〜13 第27回スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 28 2012年度/岩崎宗治 2012 4/1 ツアー反省会・懇親会 ライトセンター〜横浜「北海道」 6/17 第28回定期総会・懇親会 ライトセンター〜よこはま農園 8/12 研修会 フリークライミング体験・懇親会 ライトセンター 10/13 ハイキング・温泉 広沢寺温泉〜日和山〜七沢温泉 12/2 研修会ウォームアップとクールダウン・スキー技術について・忘年会 ライトセンター〜はなの舞 2013 1/25〜27 第28回Aコース スキーツアー 岩原スキー場 高原ハウス 2/16〜18 第28回Bコース スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 29 2013年度/渋谷清二 2013 5/19 第29回定期総会・懇親会 ライトセンター〜団欒 8/3 研修会 ブラインドスキーの安全対策 ライトセンター体育館 10/19 二俣川散策とバーベキュー 二俣川子供自然公園 12/8 研修会 スキー用具/用品に関する情報交換・忘年会 ライトセンター〜仕立屋 2014 1/24〜1/26 第29回Aコース スキーツアー 岩原スキー場 ホテルアルパイン 2/15〜17 第29回Bコース スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 豪雪による交通機関麻痺のため中止 30 2014年度/渋谷清二 2014 5/18 第30回定期総会・懇親会 ライトセンター 8/2 研修会 夏から始めようブラインドスキーの体力づくり・懇親会 ライトセンター〜モアーズビアガーデン 10/13 動物園散策 よこはまズーラシア 台風接近に伴い中止 12/7 研修会 安全に滑るために Bluetooth・スキーカルテ・忘年会 ライトセンター〜謝朋殿 2015 1/23〜1/25 第30回Aコース スキーツアー 岩原スキー場 ホテルアルパイン 2/14〜16 第30回Bコース スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 31 2015年度/渋谷清二 2015 5/17 第31回定期総会・懇親会 ライトセンター 6/6 楽しく歩いてトレーニング よこはま動物園ズーラシア 協力 ミニシティ・プラス 10/3 30周年ブラインドスキーサミット2015 ライトセンター 10/3 30周年記念サロン ふれあいショップH×3 12/6 研修会 ブラインドスキー座談会・忘年会 ライトセンター〜団欒 炎 2016 1/15〜17 パートナー研修スキーツアー(試行) 岩原スキー場 ホテルアルパイン 1/30〜2/1 第31回スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 2/27〜2/29 30周年スキーツアー 北海道キロロ シェラトン北海道 30周年ツアー 32 2016年度/高野和男 2016 5/15 第32回定期総会・懇親会 ライトセンター〜団欒 炎 7/31 夏イベント ブラインドの事をもっと知ろう・懇親会 ライトセンター〜はなの舞 中高生3名 10/2 秋イベント 楽しく歩いてトレーニング 横浜からのはじまり 桜木町〜みなとみらい21〜厩の食卓・横濱ビール醸造所 12/10 シーズンイン研修会 海外のブラインドスキー事情 私の見え方/滑り方 ライトセンター〜団欒 炎 12/10 新しいチラシ・名刺 完成 配布 2017 1/27〜1/29 第32回Aコース スキーツアー 岩原スキー場 ホテルアルパイン 2/18〜2/20 第32回Bコース スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 33 2017年度/高野和男 2017 4/8 ツアー反省会・懇親会 東林〜山下公園散策 5/14 第33回定期総会・懇親会 ライトセンター〜大龍飯店 8/5 夏イベント 身を守る方法を体験しよう・懇親会 横浜市民防災センター〜モアーズビアガーデン 10/1 秋イベント 金沢文庫散策・BBQ 金沢文庫〜野島公園 11/23 雪上研修会・懇親会 スノーヴァ新横浜・逢菜春飯店 12/9 シーズンイン研修会 ガイドラインの理解及び実践準備・忘年会 ライトセンター〜大龍飯店 12/9 ブラインドスキー・サポートガイドライン 完成 2018 1/26〜1/28 第33回Aコース スキーツアー 岩原スキー場 ホテルアルパイン 2/17〜2/19 第33回Bコース スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 3/31 春イベント お花見・ツアー反省会  桜木町〜赤レンガ・日本丸 ラ・パウザ 34 2018年度/矢部健三 2018 5/13 第34回定期総会・懇親会 ライトセンター〜牛タン圭助 7/29 夏イベント ビール工場見学・懇親会 キリンビール生麦工場 9/30 秋イベント グラウンドゴルフ ライトセンター 台風により中止 11/23 雪上研修会 狭山スキー場 12/8 シーズンイン研修会 ひやりはっとを振り返る 体も動かそう・忘年会 ライトセンター〜ミライザカ 2019 1/25〜1/27 第34回Aコース スキーツアー 岩原スキー場 ホテルアルパイン 2/16〜18 第34回Bコース スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 3/31 春イベント お花見・反省会  掃部山公園〜伊勢山皇大神宮〜野毛山公園〜一ノ蔵 35 2019年度/矢部健三 2019 5/12 第35回定期総会・懇親会 ライトセンター〜大龍飯店 7/28 夏イベント ビール工場見学&懇親会 武蔵野ブルワリー〜モナリザン 9/29 秋イベント グラウンドゴルフ ライトセンター 雨天により中止 11/23 雪上研修会 スノーパークYeti 12/7 シーズンイン研修会 藤田さん講演・ストレッチ・忘年会  ライトセンター〜横浜「北海道」 2020 1/3〜5 「声でつながる絆のブラインドスキー」ビデオ撮影 野沢温泉スキー場 レストデンセイ I&S BBDO 同行 撮影 1/24〜1/26 第35回Aコース スキーツアー 岩原スキー場 ホテルアルパイン 日本テレビ 同行 撮影 2/15〜2/17 第35回Bコース スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 2/2 ラジオ日本「小鳩の愛」放送 出演 会長矢部 事務局太田 2/9 ラジオ日本「小鳩の愛」放送 出演 会長矢部 事務局太田 2/16 ラジオ日本「小鳩の愛」放送 出演 会長矢部 事務局太田 2/16 日テレ「the SOCIAL」・おはよん放映 出演 藤田功三さん 他 2/19 プロボノ報告会「声でつながる絆のブラインドスキー」発表 YouTubeにアップ I&S BBDO RICOH FANCL ご協力 2/28 声でつながる絆のブラインドスキー チラシ完成(P77参照) I&S BBDO RICOH FANCL ご協力 3/29 春イベント 根岸森林公園 コロナで中止 36 2020年度/矢部健三 2020 - 第36回定期総会 書面評決 総会はハガキで 6/12 懇親会 オンライン 7/23 懇親会 オンライン 9/26 秋イベント 根岸森林公園散策 根岸森林公園 懇親会は無し 11/21 シーズンイン研修会 諏訪氏 かっこよく安全に滑るには? ライトセンター 懇親会は無し 12/12 雪上研修会 スノーパークYeti 1/7 35周年記念Tシャツ 完成(P2参照) 1/28 35周年記念ビブス 完成(P2参照) 2021 1/22〜24 第36回Aコース スキーツアー 岩原スキー場 ホテルアルパイン コロナの為緊急事態宣言につき、中止 2/20〜22 第36回Bコース スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ コロナの為緊急事態宣言につき、中止 2/20 懇親会 オンライン 3/28 散策 根岸森林公園 雨天のため中止 3/31 35周年記念チラシ・名刺 完成(P77・P78裏表紙 参照) 37 2021年度/矢部健三 2021 6/20 第37回定期総会 ライトセンター 6月 35周年記念誌 完成 9月下旬 秋イベント 11/20 シーズンイン研修会 ライトセンター 12/11 雪上研修会 スノーパークYeti 2022 1/21〜23 第37回Aコース スキーツアー 岩原スキー場 ホテルアルパイン 2/19〜21 第37回Bコース スキーツアー ホワイトワールド尾瀬岩鞍スキー場 ロッジかぶらぎ 3月下旬 春イベント ※1 神奈川県ライトセンター(二俣川) ※2 神奈川県総合リハビリテーションセンター(七沢) ※3 かながわ県民活動サポートセンター(横浜) ※4 日本赤十字社神奈川県支部(山下町) !6.0 《35周年に寄せて》                               (OBおよび白崎さん) !6.1 「KBSC生みの親は赤十字奉仕団?」     白崎正彦  ライトセンターの前身「神奈川県点字図書館」は1965年に中区根岸の「横浜赤十字病院」の敷地の二階に血液センターを負ぶって誕生した。職員は図書館司書の資格を持つ先生だった人を除き、館長は青少年赤十字(JRC)指導者協議会の副会長方で、他の職員は神奈川県青年赤十字奉仕団メンバーで、1959年に結成された点訳奉仕団の登録者が二人でした。  奉仕団は以前から盲学校と交流の場を持っていたので生徒から希望があったか、図書館設立の翌年、奉仕団が主催して愛川町で二泊三日のキャンプを行なった。大好評を得たキャンプは翌年には成人視覚障害者も参加して、全員が必ず何かしらの役割を持ちグループで話し合う場が沢山持たれた。 そして、宿泊で外出が困難な人の事を考えてか、次の年からは「交歓ハイキング」も実施され、内容を変えながら今でも「ワンデイウォーク」として奉仕団主催で行われている。 こうした交流の中で晴盲一緒にスポーツをする事も多くなり「盲人野球」(現グランドソフトボール)、「盲人卓球」(現サウンドテーブルテニス)、「盲人バレーボール」(現フロアバレーボール)等々を盲学校の校庭を借りたり、ライトセンターを使ったりしてスポーツを楽しみました。   そして、1979年の交歓ハイキングはウインタースポーツをと「雪と戯れ雪に遊んでもらう会」を山中湖畔で実施したが、何と現地には雪が全く無いばかりか雪の代わりに雨が降り出し、慌てて近くの旅館に行って体育館を借り、知恵を絞って皆で運動会をして横浜に帰りました。 翌年、こんどこそは雪のある所へと菅平へ行って雪を満喫することにしました。 ところが、集合場所の横浜駅でスキーバスに乗ろうとしたら、添乗員が菅平のスキー場は砂塵舞っています。代わりに草津なら人工降雪機の雪がありますよ。と言う事で草津に行くことになり、即、行き先変更で草津温泉に宿を取り天狗平に向かいました。数人がほぼ平らなところで直滑降を楽しみ、残りの数人はソリ遊びを楽しみました。 スキー組は是非ちゃんとしたスキーがやりたいと言うことで、何度か下見をした湯沢新日本スキー場の中八旅館を宿に決め奉仕団主催のブラインドスキーが始まりました。 当初はスキーのベテランが居ないので、72年の赤十字スキーパトロール養成講習に合格した救急法指導員の奉仕団員に協力を依頼し、視覚障害者のサポートについて勉強していただき、ブラインドスキーの指導に合わせてナイターではスキー技術が未熟な晴眼者にもスキー指導をお願いしました。 こうして多くのボランティアの力で神奈川のブラインドスキーが始まり、視援奉主催のアルペンスキーはその後22年続きます。  スタートしたブラインドスキーは5年後の1985年に視覚障害者主体の「神奈川県視覚障害者スキー協会」(現:かながわブラインドスキークラブ:KBSC)が誕生します。 この誕生秘話を詳しく知りたい方は10周年記念誌の第二部協会発足前夜『中八旅館の一室で』をお読みください。(注:P70《番外編A》参照)   !6.2 「出会いと別れ」     渡辺文治  ブラインドスキーと出会ってから40年になります。延べにすると数千人の参加者があり多くの方と出会いました。ライトセンターのお知らせを見て参加する方、同僚や知人を誘ったり家族を連れてくる方も多くいました。  残念ながら今ではほとんど音信不通になっています。しかし、初期の実行委員の何人かとは「じじばば会」を作り、毎週畑仕事をしています。また、STTサウンドテーブルテニス協会の審判部には何人かの参加者がいて一緒に活動しています。KLVN、神奈川ロービジョンネットワークの活動で昔の参加者に会ったこともあります。日本赤十字のスキーパトロールの方々とも色々活動しました。神奈川で最も伝統ある(と言っていました)クラブに入れられ、今後の活動に必要だからと言われ1級の検定を受けたりしました。 滑るだけではなく、レジャーレクリエーション学会や視覚障害関係の研究会でブラインドスキーの発表をしたり、日本スキー学会で講演したこともありました。文治さんのスキー人生はブラインドスキーとともにあったと言って良いでしょう。  出会いがあれば別れがあります。鬼籍に入りもう会えなくなった仲間もいます。これからはそういう別れが増えていくでしょう。 こういう出会いと別れが現在の参加者にも受け継がれ、続いています。この流れが今後も長く続いて行ってほしいと思います。 !6.3     井上誠剛   スキークラブ創立35周年おめでとうございます。  私がクラブに入ったのは、記憶違いでなければ、まだ若くてイケイケのイケメンの時だったかな。(?)  ブラインドスキーの存在を知ったのは、ライトセンターに入社して「白崎」さんに出逢ってしまったからです。それからブラインドスキーにハマり、実際に入部させていただいたのはクラブ活動が軌道に乗っていた時だと思います。 私にとっての一番の記憶は、ツアーに行くたびにブラインドの方々と楽しいスキーができたことです。スキーは若い頃から行っていましたが、ブラインドスキーは、シンクロして滑る。私の感覚はそんな感じで、それを楽しく体験させてくれたのがクラブのスキーでした。  スキー人口が激減したと言われて久しく、また昨年からのコロナの影響でスキーに行くことも難しいです。しかしクラブの方々が楽しい企画を考えられ、来年の冬以降活動が再開出来ることを願っています。 !7.0 《35周年にあたって》                                 (クラブ員から) !7.1 「ブラインドスキークラブに思うキセキの絆」     衣笠健一  出会いと別れを繰り返す人生。私達にとってクラブの存続する意義はおおきい。一億2〜3千人の中のたった100名たらずの出会いはキセキと言えるのではないでしょうか?第6回から参加の私も早30年近くになります。『出会いの一歩』何か新しい事を始める時、一歩を踏み出す勇気が必要ですよね。一歩踏み出したら世界が変わった。私にとってのスキークラブの魅力は、年齢・職業の異なる人達がブラインドを通し知り合えたこと。優しい人・リーダーシップのある人・知識が豊富な人・厳しさのある人・こわい人・女子が強い、 、 、おっと、クワバラ、クワバラ(笑)  ブラインドスキーは生きる勇気と希望をもたらし私の人生を豊かにしてくれてます。ここまで続けてこられたのは、初めて電話で話した功三さんの優しい声、そして初めてのパートナーも功三さん。期待を裏切らず、いきなり雪の壁に突っ込ませてしまいましたね。『ヤッチマッタ』と思っていたら、功三さん、ニッコリ笑って『大丈夫、大丈夫』と言ってくれました。この出来事が私の続けてこられた原点です。功三さんを始め私を育ててくれたブラインドのみなさんに感謝します。ブラインドのみなさんが『滑りたい』と言ってくれるからパートナーができる。そしてブラインドとパートナーの絆が生まれ、人の輪が広がって行きます。多くの人がブラインドとの絆を作り深めていける場として、このクラブが存続する意義があると思います。『継続は力なり』、これからも人に勇気と希望を与えられる楽しいスキークラブとして40周年を迎えられたら嬉しいですね。 !7.2     有賀美由紀  まずは、かながわブラインドスキークラブ35周年へ寄せる思いとして、これまでに多くの素敵な?方たちに会えたことを本当に感謝しています。  私とスキークラブの出会いは、25年前になります。ちょうど10周年を迎えた頃に入りました。あっという間の25年でしたが、皆さんとの出会いで続けられた。今でもパートナーとしてスキーを滑るときは、心臓がバクバクして緊張しますが、気持ちを合わせて滑りきれたときは、一人で滑るのとは全く違う爽快感があります。お互いの信頼感があっての「ブラインドスキー」だと思います。  未来の私たちのクラブへは「絆」で滑る「ブラインドスキー」が愉快に楽しく仲良く未来永劫続いて欲しいなと思っています。「かながわブラインドスキークラブ」は35歳の若さのですので、これからの成長が楽しみです。いつまでも応援していきたいと思っています。 !7.3 「かながわブラインドスキークラブ35周年を迎えての思い」     串田直樹  もう35周年を迎えたのですね・・30周年の記念行事がつい数年前だったように感じます。思い起こせば30余年前、朝日新聞のボランティア募集を見たのが当クラブとわたしの出会いでした。当時はスキー場のリフトもまだシングルがメインの時代でした。班編成は現在とは異なり、クラブ創設当時のリーダー、サブリーダー、そしてブラインドとパートナーが同人数で一人に一人がサポートしていました。  それから30余年を経て、用具と技術の革新、スノーボーダー出現、世代の交代など、ハード・ソフト両面ともに変化が大きかったなか、当クラブは“議論”“アクション”そして“チャレンジ”により常に時代の変化に対応したブランドスキーの“範”を示してきました。それは、スキーツアーのみに終わらず、年間を通した活動による“クラブ員相互のコミュニケーション”の賜物だとわたしは感じています。  さて、今シーズンは新型コロナ感染症の影響でクラブのメイン活動であるツアーを中止せざるを得なくなりました。これまでの当たり前が通用しなくなり、来シーズンの実施も見通せない状況にあると思います。  35年の節目、また当クラブに新たな試練が課せられたのでしょう。これを機に、多種多様な事柄を今一度点検して、必要に応じて“新たな仕組み”をつくる必要があると思います。今一度「安全で楽しいブラインドスキー」を点検して、再構築してみませんか。  「できます!」「やりましょう!」私たちには35年間蓄積した“活動ノウハウ”が、そして何よりも、かけがえのない“コミュニケーション力”があるのですから。ピンチをチャンスに変えて、ゲレンデでスキーをエンジョイしましょう。 !7.4     対馬まり  2020−2021シーズンはコロナ禍の中、スキーができずモヤモヤした気持ちを引きずっている方も多いと思います。そう私もその一人です。ですが、コロナは災害です(と思っています)。日常が奪われてしまったからと言って嘆いていても仕方ありません。  ところで、東日本大震災では「津波てんでんこ」という言葉がクローズアップされました。「てんでんこ」は、人に構わず各々逃げろということだけでなく、事前に大切な人々と「津波の時はてんでんこしよう」と約束し信頼しあう関係を深めておくことも重要とされています。 まさに今、私たちは「コロナてんでんこ」です。今は人と会えない不自由な生活を強いられていますが、命があれば、それぞれの場所で準備をし、災害が去った後にまたはじける笑顔で集まりましょう。 元気にワイワイガヤガヤ。だって楽しいのだから。ゲレンデを滑走してふと立ち止まった時のメンバーの笑顔がまぶしい。日頃のストレスを笑ってしゃべって発散できる場、それが私にとっての「かながわブラインドスキークラブ」です。 !7.5 「蟹からほたての糠平ツアー」     大橋由昌    私がKBSCに入会したのは結成20周年記念、富良野のツアーの1〜2年前だったと記憶する。川添由紀ちゃんの伝手で、恐る恐る仲間入りした。入ってすぐにスキーツアーに参加するのも、なんだか「おいしいとこどり」だけするような気がしたので、ほとんどはじめましての人ばかりでとても気まずかったものの、1年目の総会に畏まって参加したことを覚えている。誰でもそうなのだろうが、新しい人の輪に入るときは、少々緊張したし、それなりに気おくれした。私とて、最初から「因業爺」と名乗るほど、ずうずうしくはなかったのだ。 あちこちのスキークラブに入ろうと思うようになったのは、次女が高校生になった冬からのことであった。連れ合いが43歳で亡くなり、やっと子供に手がかからなくなったので、2〜3泊できる余裕ができたからだ。子供たちも感じていたろうが、父子家庭の不自由さを味わった。長女の時は連れ合い任せで気にもしなかったが、横浜市の中学校は給食がなく、次女にお弁当を持たせなければならなかったのには、自分のふがいなさも含めていまだに腹が立つ。「命は食にあり、義務教育は給食にあり」と思う。弁当を使うのは、課外活動の昼ぐらいでよい。初等中等教育の場において、給食すら提供できない現状は、市の教育行政の貧困を物語ってもいる。  そんな事情で、複数のブラインドスキークラブを渡り歩くことになった。各クラブとも年に1〜2回スキーツアーを企画しており、たくさん滑るには掛け持ちするのが手っ取り早かったからにほかならない。だいすきークラブで由紀ちゃんと知り合い、「北海道でも滑りたいねえ」と話がまとまり、少しばかり顔の広い私が企画し、帯広の後輩に頼み込んで、現地のサポーターを集めてもらい、サホロスキー場へ乗り込んだのがきっかけだった。以後、7〜8年続いた格安の糠平ツアーにつながっていく。おんぼろの送迎バスと、どこかユーモラスな鬘のドライバーさんが懐かしい。最初の歳は、教会の牧師さんから後輩のガイドヘルパーさんまで、多様な顔ぶれだったが、その後帯広養護学校の若い先生方を中心に、定例的なスキーツアーになっていった。私が幹事で、だいすきークラブ員の重複障害者の家族を中心に実施した。同行するパートナーが少なかったので、由紀ちゃんがヨット仲間を誘ってくれたりしたが、手元の資料によれば、2009(H21)年からKBSCの何人かに声をかけたようだ。このころ実行委員の仲間入りをしていた関係もあったと思う。その顔触れは、川添・小須田・志村・中西・宮副のみなさんだったと記憶する。岩(がん)ちゃんも加わっていたかもしれない。  パックツアーの関係で、サホロスキー場からうら寂びれた糠平スキー場に変わったとはいえ、ゲレンデはガラガラだし、雪質はパウダーだし、コストパフォーマンスは高く十分満足できた。佳代さんの前走で滑った時、ゲレンデ1本誰とも会わないこともあった。夜は夜とて、夕食にはひとりに蟹が1匹丸ごとついたり、現地サポーターが趣味で手作りの獅子をかぶって踊ったり、おまけに転んで骨折者も出したり、とハプニング続きのツアーであった。このKBSCの中心メンバーである功三さんが、糠平をとても気に入って、というより北海道が好きだったのだろうが、よほど忘れられないらしく現地サポーターの若い女性教師といまだにメール交換をしているほどだ。せっかく、北海道の北見出身の衣笠さんをメインのパートナーにしてあったのに、なかなかレジェンドも隅に置けない。  結成25周年記念ツアーは、クラブツーリズムの糠平スキーパックツアーに便乗して、35〜36人の参加者で盛り上がったので、記憶されている会員も多いはずだ。写真なども残っているのではないだろうか。記念ツアーも含めて、十勝帯広空港には何度も降り立った。たまたまシムさんの妹分が帯広に住んでいたこともあって、双子ちゃんを連れて参加してくれた。その双子のニー・マも夜の宴会の場で、愛嬌を振りまいていた。太郎さんと私が、子供たちを肩車して練り歩いたことを懐かしく思い出す。幼稚園の年長さんだったニー・マも今年、高校生になるという。反比例して私は、残念ながら老いて爺じになるわけだ。  これまでKBSCのメンバーには、ずいぶん迷惑をかけたし、お世話にもなった。「鬼のよりちゃん」と異名をとる、柴田さんの注意を無視してぶっ飛ばしていたし、腰痛でしんどかったにもかかわらずツアーに参加して、見かねた串田さんに板を担いでもらったこともあった。コロちゃんにも会計面で、幹事役のサポートをずいぶんしてもらった。あれやこれやと、思い出は尽きない。成人式を挟んだ糠平パックツアーも、蟹からホタテ料理となり、募集もなくなった。私の幹事役も、当事者のリーダーとしてやべっちをはじめ、キーちゃんや智樹くんに引き継ぐ時期に来ているように感じる。健太さんや充咲さん、そして美有紀ちゃんたちにサポート役をお願いしたい。あたかも「トレーン」のように、何人も何人も役員が入れ替わって、シュプールを描きながらKBSCは、滑り続けていくことであろう。  代表でもないのに、偉そうなことを言ってしまった。  あの人も、この人も、みんな元気蟹?(了) !7.6     岩崎宗治  スキークラブ35周年、おめでとうございます。これはクラブ創設期より支えてくださっているレジェンドの方々をはじめ、クラブを愛するメンバー全員の努力の結晶だと思います。  私はスキーを高校時代に初めて体験して好きになったのですが、クラブ入会時にはそれから5年以上ブランクがあり全く滑れなくなっていました。当時組んでくださったパートナーの方々を下敷きにしてしまったり、なかなか指示通りにターンできずに怒られたり、いろいろと迷惑をかけてしまいましたが、クラブのメンバーはそんな私を突き放すことなく、1人のスキーヤーとして受け入れてくださいました。  このクラブの良いところは、年齢や性別、障害の有無に関係なく、スキーが好きであれば誰でも参加でき、会員同士が同じスキーヤーとしてバリアフリーな関係にあることだと思います。今後もその伝統を守りながら、スキーを通じてブラインドも晴眼者も、誰もがスキーの素晴らしさを共有できる場であっていて欲しいと願っています。 !7.7 「雪遊びが原点」     渋谷清二  スキークラブ結成35周年おめでとうございます。一口に35年と言っても、益々組織離れが横行する昨今クラブを維持していくことは大変なことだと思います。ライトセンターのクラブは文化系スポーツ系合わせると30以上でその活動の殆どが月に何回か定例的に行われていると思います。  スキークラブのイベントはシーズン中のツアーがメインです。それを充実させるためにシーズンオフに総会やお花見などが、役員や実行委員によって企画されています。 現在は大所帯となった我がクラブも発足当時は雪と戯れる所から始まったそうです。 そして、10周年・20周年等の節目には記念誌の発行や記念イベントを開催してきました。 あらゆるものが多様化する時代にあっても、雪と戯れる原点を忘れないそんなクラブであってほしいと思います。 !7.8 「かながわブラインドスキークラブ35周年」     外山尚  かながわブラインドスキークラブが35周年を迎えることができ非常にめでたい事です。クラブ設立時がいちばんたいへんな時期であったと思います。晴眼パートナーやブラインドスキーヤーの募集、ツアーに適したゲレンデ、宿泊先の選定、そして何より大切なスキーの誘導法の確立など歴代のクラブメンバーみんながいろいろな試行錯誤を経験しながら今日のかながわブラインドスキークラブをつくりあげてきたのだと思います。クラブ設立時からブラインドスキーの楽しさを伝え続けてきたレジェンド藤田さん、白崎さんのパワーはすごいものがあると感じます。  35周年を迎え ブラインドスキーに対し、私の思うことを述べさせていただきます。まずはブラインドスキーヤーもパートナーである晴眼スキーヤーもいちばん大切なことはスキーを楽しむことだと思います。人によって楽しいと感じるスピード、滑り方は異なります。ブラインドスキーと晴眼スキーヤーは滑る前に話し合って、そこの意思統一をしておくとスキーはとても楽しいものになるでしょう。晴眼スキーヤーにとっては一人でフリーに滑るスキーももちろん楽しいのですがブラインドスキーヤーを緊張感を持って誘導するスキーも楽しいものです。ゲレンデに止まっているスノーボーダーに対し安全な距離をとって避けて誘導する、ゲレンデの端に寄っていく滑りをするブラインドは何気なくゲレンデセンターに戻すような誘導をする、不整地を滑らざるを得ない斜面ではびっくりしないように斜面状況を前もって伝えながら誘導する、暴走してしまうブラインドにはスピード制御の方法を教える、後方から滑ってくる一般スキーヤー、ボーダーを音と広い視野で感知して誘導コースを変更する、右左の誘導に対する反応が遅くなってきたときに休憩が必要のサインと見抜くなど滑走中に いろいろなことを同時進行で考えながら行うブラインドスキーの誘導は実に奥が深いです。最初から全て完璧にはできませんが こういうことを意識すればいつかできるようになると思います。ブラインドスキーヤーにとっては雪上では白杖を使わずに自分で能動的に滑ることができ、またスピード感、風、雪を感じることができる素晴らしい時間だと思います。自分でいい滑りができたなあと感じることもあると思います。これからもクラブメンバー全員が協力し合いながら、また十分に楽しみながらクラブ運営、ツアー参加しましょう。 !7.9 「未来の私たちのクラブ」     高野和男  私がかながわブラインドスキークラブに入会したのは、創立20周年記念イベントが開催された年でした。徐々に視力の低下が進み一人でのスキーが恐怖を感じていた時でした。初参加のスキーが北海道の富良野スキーとなり、一人でのスキーでは味わえないスピード感そして安心感を少し感じられたことを覚えています。15年間パートナーとのスキーを楽しんでみて、安全対策・視力の違いに対する配慮・情報の発信形態・他のブラインドスキーサークルとの交流など進化を感じています。まだまだ、解決すべき点はあると思いますが、会員全員が一つの輪を今以上に大きく広がることを願っています。クラブ前会長として晴眼者にも視覚障碍者にも胸を張って入会を勧めることができるクラブであり続けてほしいと願っています。 !8.0 《夢を語る》                                       (クラブ員から) !8.1 「かながわブラインドスキークラブへの思い」     小平幸絵  私がこのクラブに入って早5年がたちました。30周年記念ディスカッションとパーティーに知らない人ばかりなのに参加してそのまま2次会や3次会に流れ込み、ついにはオールナイトカラオケまで。あっという間の時間だったように記憶しています。「なんだか心地よいぞ」それが第一印象でした。初めてお会いする方ばかりなのになんでだろう??と疑問に思ったものです。でも、その疑問は、クラブ活動していくうちに、よくわかりました。とにかくあたたかいのです。ほわっと受け止めてもらえる雰囲気がここにはあるのです。以前より見えなくなって、スキーをあきらめていましたが、HPでこのクラブを知り「なんだか一緒に滑ってもらうの悪いな」とか「気をつかわせてしまって申し訳ないな」などと考えていましたが、実際一緒にスキーをしていると、すごい一体感を味わいます。パートナーさんを信じて滑っていると、支えてもらっているだけではない、じんわりとあたたかな気分になるのです。人を信じることで生まれるエネルギーです。 見えるとか見えないとかにかかわらず、お互いを思いやり、できることをできる人がやっていく。そんなステキなサイクルがこのクラブにはあると思うんです。一緒にスキーをすべるだけではないのです。  毎年少しずつですが、新しい仲間も増えてきて、新しい風も吹いてきますが、このクラブのほんわかをどんどん広めていきたいと思います。好きなスキーでつながって、好きな仲間とつながって。輪が広がります。 !8.2     井上浩一  35周年おめでとうございます。 長崎出身の私にとってスキーはなんとなく遠いものでした。このクラブに出会って、膝がない人と心配されたり年号が変わったりしながら約5年、ようやく風を切って滑る楽しさを感じ始めることができました。  35周年にあたり、藤田功三さんのお話を始めとしてクラブの歴史を聞く機会が多くありました。その中で、今の誘導方法が試行錯誤の中で選び出され、改善されてきたものであることを改めて感じました。より安全に、より楽しく滑れるように、パートナーの負担が少なくなるように。そしておそらくこれからも改善し続けていくのは私たちなのでしょう。いつかそんな改善の旅の中の1ページを見つけられたらいいなとこっそり思っています。 いや、その前に…早く岩鞍の「ななかまど」怖がらなくていいようになりたいなあ。 !8.3 「私たちのクラブの未来」     栗原美穂  新型コロナウイルス感染症の流行が始まって、1年が経ちました。自由に人と交流したり、出かけたり出来ない1年でしたが、かながわブラインドスキークラブでは、役員の方々のたくさんの工夫配慮によって、コロナ禍でもオンラインやイベントで交流が続いています。 当クラブはブラインドスキーのクラブです。しかし、クラブの皆さんと交流する中でいつも感じることは、皆さんにとってこのクラブは、スキーだけでなく大切な居場所であるということです。ツアー中、リフトやお部屋でお話しする時間、懇親会、イベントなどなど、何気ない会話や共に過ごす時間をとても楽しんでいる事が伝わってきます。私もまた、その時間を楽しんでいる一人です。  これからも、ブラインドにとってもパートナーにとっても、会うだけで声を聞くだけでほっと安らげるような、クラブの皆さんにとって大切な一つの居場所として続けていけるといいなと思います。 !8.4     星有沙  かながわブラインドスキークラブとの出会いは現会長の矢部さんがきっかけでした。 学会発表でのポスターを見て、「昔からスキーをやっていたし、面白そうだからやってみたい!」という思いだけで矢部さんに声をかけました。実際にツアーに参加して一緒に滑るとなると難しいこともたくさんありました。ですが、それよりもみなさんと一緒にご飯を食べながらお話ししたり、滑ったりすることが本当に楽しく、毎年参加したい!と思うようになりました。  今、私は北海道に住んでおり、コロナ禍でなかなか本州に行くことができません。ですが、いつでも皆さんと滑ることができるようにスキーを続けています。雪の豊富なこの北海道で、技術を磨くことと北海道にもブラインドスキーを普及させることを目標に何か始められたらいいなと思っています。 コロナが落ち着いて、また皆さんにスキー場でお会いできることを楽しみにしています! !8.5 「身体より、頭より、心をつかって」     青木伸也  はじめまして、の方がほとんどだと思うので自己紹介を。兵庫県豊岡市在住の青木伸也と申します。友人の紹介で2020年2月の尾瀬岩鞍ツアーにパートナーとして初めて参加させていただきました。僕のブラインドスキー体験はその一度きりです。 その一度きりの体験が僕にとっては本当に素敵な時間になりました。これまでスキー技術の向上のために「身体」や「頭」をつかってきました。家族全員でスキーに親しんできて、楽しさや面白さも存分に味わってきました。 でも、こんなに「心」をつかってスキーをした体験は初めてでした。スキーの楽しさ、面白さの新たなページをめくってもらいました。何より、出会った皆さん全員がとても素敵な方々で、仲間に入れてもらって本当に感謝しています。 今年も参加するつもりで調べました。僕の家から尾瀬岩鞍までGoogle マップでは車で9時間30分。近いもんです。これから毎年一度は皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。 !9.0 《会則》 かながわブラインドスキークラブ会則 (2019年改訂版) 第1条 (名称)  本団体は、かながわブラインドスキークラブ(以下クラブ)と称する 第2条 (目的) スキー等雪上スポーツを通じて、視覚障害者の健康および体力増進を図り、視覚障害者(以下ブラインド)と晴眼者(以下晴眼)との相互理解を深め、福祉を向上させる 第3条 (活動)  第2条の目的を達成するためにつぎの活動を行う。 (1)  視覚障害者スキー(以下ブラインドスキー)の実施 (2)  ブラインドスキーの普及及び技術向上、これに関連する団体との交流 (3)  クラブ会員の体力増進 (4)  ライトセンター事業の活動に協力する (5)  その他、第2条の目的達成に必要なこと 第4条 (会員及び入退会) 第1項 会員はブラインド・晴眼を問わず、正会員・賛助会員で構成される。 (1) 正会員 クラブの活動に積極的に参画し、会費を納入した個人を正会員とする (2) 賛助会員 クラブの目的及び活動に賛同し、賛助会費を納入した個人及び団体等を賛助会員とする 第2項 会員になろうとする者は、入会説明会に参加し、役員会が別に定める入会調査票を会長に提出しなければならない。入退会の可否は役員会で検討し会長が承認する。 第3項 退会しようとする会員は、その意思を会長に申し出て任意に退会することができる。第4条第4項で定める休会中の会員で、2年経過時に休会継続の意思を会長に表明しなかった者は退会したものとする。 第4項 休会しようとする会員は、その意思を会長に申し出て任意に休会することができる。会費を2年以上未納の場合は休会したものとする。休会中の会員は、ツアーやイベントなどクラブ行事に参加することはできない。休会を終了する会員は、その意思を会長に申し出て当該年度の会費を納入しなければならない。 第5条 (会費)  本クラブは会員より会費を徴収しこれを活動費として運営する。但し、入会を検討するために本クラブが主催する行事への参加には、会費の納入を必要としない。  会費の変更は財務状況に応じて役員会で審議・立案の上、総会の承認を得なければならない。 第6条 (役員)  役員は以下の役職で構成され、必要な事項を役員会で協議する  第1項 (構成) 会長   1名 副会長  2名 会計   1名 事務局長   1名 企画   若干名 広報   若干名 監事   1名  (監事は会計及び業務の監査を行う)  第2項 (役員会)   役員会は、必要に応じて会長が招集する  第3項 (事務局) 事務局は事務局長宅に置き、神奈川県ライトセンターのクラブ活動として活動拠点をライトセンターとする、 第7条 (顧問)  必要に応じて、顧問を置くことが出来る 第8条 (責務)  会長は会務を統轄し、副会長は会長を補佐し会長事故あるとき、その職務を代行する。  また、顧問は会長の諮問に応じる 第9条 (選出) 役員・顧問は総会において選出・承認された者がその任にあたることとする 第10条 (任期)  役員・顧問の任期は2年とし、再任を妨げない  第1項 (期中交代) 役職を問わず責務の遂行が不可能な事情が生じた場合は、役員会の承認を受けて残任期間を他の者に交代することができる、 第2項 (変更の通知)  変更事項は役員会が決定し、会長はその結果を速やかに会員へ通知しなければならない 第11条 (実行委員会)  役員会は企画する行事内容により、実行委員会を組織することができる 第12条 (総会) 総会は原則として年1回とし会長が招集する。なお、必要に応じて臨時総会および書面総会を招集・開催することができる。総会は、会員の過半数をもって成立し、議決は出席者の過半数の賛成を必要とする。総会における承認および協議事項は次のものとする (1) 予算及び決算 (2) 事業計画および事業報告 (3) 役員の選出 (4) その他本クラブの目的を達成するために必要な事項 第13条 (会計年度) 会計年度は、毎年4月1日から翌年3月31日までの1年間とする 第14条 (改廃)  本会則の改廃は、総会の承認を得なければならない (附則) この会則は、昭和60年8月18日より施行する、 (附則) この会則は、平成2年4月15日より改正施行する、 (附則) この会則は、平成13年6月3日より改正施行する、 (附則) この会則は、平成26年5月18日より改正施行する、 (附則) この会則は、平成29年5月14日より改正施行する、 (附則) この会則は、令和元年5月12日より改正施行する、 以下余白 !10.0 《番外編A》  35周年記念誌作成に当たってクラブの過去の資料を集めました。その中で10周年記念誌「声のきずな」に非常に助けていただきました。 この10周年記念誌には藤田さん講演会やレジェンド座談会でも登場したクラブ発足前夜のお話も掲載されていました。現在の会員の皆さんにも読める形にしたいと思い、ここに再録いたします。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  10周年記念誌 「声のきずな」第二部 協会発足前夜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  座談会 『中八旅館の一室で』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  出席者:藤田功三、上杉淳、古畑英雄、白崎正彦(司会)  日時:1995年11月28日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 白崎:今日は、神奈川県視覚障害者スキー協会が10周年を迎えて、今回その記念誌を出すにあたり、発足当時を振り返ろうということで、皆さんにお集まりいただきました。題して協会発足前夜『中八旅館の一室で』です。まず『中八旅館』について説明をします。ここは神奈川県視覚障害援助赤十字奉仕団(視援奉・奉仕団)のブラインドスキー(視覚障害者スキー)の常宿でした。 1986年第一回スキーツアー・岩原スキー場 藤田:協会の第一回スキーツアーは、1986年2月1日から2日の1泊2日で行われ、確か土曜・日曜でした。2月1日(土曜日)の朝7時に横浜駅出発でしたので、厚木の方から来た人は大変だったと思います。 白崎:記録では視覚障害者の参加が10名になっていますけど、藤田さんの記憶によると、一人風邪で不参加になって視覚障害者9人と晴眼者16人、場所は岩原スキー場、藤田さんの奥様の実家でした。参加費が16500円ということで。そんな経過で始まりました。協会の初代会長は藤田さん。藤田さんが会長に選ばれた総会というのが1985年8月18日(日)でした。 藤田:ライトセンターで、上杉・福島・大里が中心になって設立準備会を開き、会則をどうするのか等、ブラインドスキー(視援奉)が終わった直後から始まりました。 白崎:そういうのをやろうという話が出たのが、タイトルにある『中八旅館』で、誰が火付けをしたのでしょうか。 藤田:それはおそらく古畑さんだったと思います。 白崎:どうですか古畑さん。 古畑:酒飲んでたから責任はありません。(笑) 藤田:話は福島悟君から出たと思います。 白崎:福島君をそそのかしたのが古畑さんということになるのかな。(笑)    そこでは具体的にどういう話が出てたのですか。 「もっと滑りたいね」「どうする」 藤田:懇親会が終わった後の部屋の中だったと思います。「楽しいね」ということか「もっと滑りたいね」とはじまったわけですよ。そこでこんな話(スキー協会を作ろう)があるんだけど「どうする」「皆でやってみようか」という話になりました。お酒も入っていて、盛り上がってきました。 古畑:あの頃は1981年の国際障害者年(国障年)の『完全参加と平等』というスローガンで、レクリエーションが初めて神奈川県の行動計画に登場した頃でした。日本でも「国障年」の前まで視覚障害者のスポーツは、「理療関係の団体」「視覚障害者の雇用を進める会」とか「日本盲人連合会」等職業関係の会の一行事で、スポーツだけ取り上げたグループはあまり有りませんでした。スキー協会ができたことで、神奈川県盲人卓球協会もでき、今年になってやっと(スキー協会が出来て10年目にして)フロアバレーボール協会が出来ました。(笑) スキー協会設立は神奈川県において障害者当事者が中心になって運営するスポーツ団体が発足するきっかけになったと思います。 上杉:勇気有ったんだね。 藤田:自分達にはその意識はなかったけれど。(笑) 古畑:歴史の流れを見るとそういうことになりますね。 藤田:ただスキーを滑りたかっただけの気がしますけど。 古畑:その当時、ライトセンターのクラブはライトセンターの中だけで活動していて、外に参加を呼びかけることはなかった。そういう意味では、ライトセンターのクラブの方向が変わったというのか、そのメンバーは閉鎖社会でなく、公募もするというような新しいパターンになったのではないかな。 白崎:そもそも、『中八』でスキー協会設立の働きかけをしたというのは、年一回の奉仕団のスキーだけでは物足りないんだ、もっとツアーを実施して欲しいという具体的な要求が有った訳でしょう。 古畑:奉仕団のスキーが5年目に入った頃、初心者中心に行っていたツアーの参加者が上級者と初心者に分かれてきたでしょう、その頃丁度うまく初心者は奉仕団、上級者は協会へと交通整理ができたのです。 白崎:視援奉でスキーを始めたときには、正直な話、視覚障害の人達がそう滑れるようにはなるとは思わなかった。 上杉:だって、俺が滑れなかったもの。(笑・・笑)雪の上で遊ぼうから始まった。 藤田:最初はたしかに「雪に遊んでもらう会」だったんだから。 古畑:スキーとしてやって行くのだから、スキーができれば視覚障害者のボランティアだからといって、点字を知らなくてもよいと変わって行き、視覚障害の方もスキーのうまい人が入ってきて、結果論だけど5年位で丁度うまく切り替えができた。「86年」のタイミングを失うと、うまい人もつまらなくなり「なに!いつも初心者と一緒かよ!」というように、色々なことがタイミングよく「ポーン」と弾けたのでしょう。 障害者の社会参加・初代会長 上杉:障害者の社会参加「自立する」ということで、外へ出ていく舞台が非常に多く提供されてきたわけです。一般市民の障害者に対する思いやりや行動が広がり、それに我々が乗るという舞台が広がったわけです。その中で障害者は満足していなかった技術面もあったけど、乗せられてお世話になっているというスタイルだけじゃなくて、自分達で企画したり、運営したり、それに関わっていきたいと。ボランティアさんと一緒になってやっていき、できなくてもできても良いから主体的に模索して行こうというのが色々な所で行われ出して、その流れが、スキー協会の時にも大勢の皆さんが結構乗ってきて、その原動力になったのではないでしょうか。 白崎:81年の「国障年」は日本にとって非常に大きな転換期になったわけですが、障害者の人達をお客様として扱うという考えからスタートしてしまった。視援奉がスキーを始めたのも80年だった。その時の中心はボランティア活動として障害者に雪の楽しさを味わってもらおうじゃないかということが中心で、どちらかというとお客様的な部分が多分にあった。「国障年」をきっかけに当事者が社会参加を考えざるをえなくなってきたかもしれない。 古畑:僕はたまたまスキーフォアライトというウィスコンシン州でやっているクロカンの大会に83年に行ったんです。「完全参加と平等」とか言葉は分かっていたけど、具体的には分からなかった。スキーフォアライトは今年で20周年を迎え、バットキースという全盲の人が全部仕切っている。要するに当事者がやらなければいけないんじゃないかなとおもいました。色々動いてくれるのは若いので福島君がいると行った具合になり福島君は年齢的にも若いので、会長は自然に長老の藤田さんに決まって行ったのではないでしょうか。 藤田:最初の案は、福島悟会長、私副会長、井田君事務局の予定だったと思います。 白崎:視援奉のレクリエーション部会の特徴でもあるが、なるべく当事者に実行委員として参加してもらおうという下地があって、それが協会発足に非常に大きな力になったのではないかと思います。藤田さんがブラインドスキーに来たことは、我々にとってもショックだったんですよ。視覚障害者のスキーとはこんなもんだろうというところを変えざるを得なくなった。年何回も滑りたいんだったら自分達で実行し解決して行かなくては、本当にスキーを楽しむということはできないという思いがありました。だけど当時ボランティアの方はきつかったね。 古畑:うん、若かったし、はっきりいってスキーは「これ(お金)」高いもの。 上杉:かなり負担を掛けていると感じていました。 古畑:奉仕団のクリスマスの会等は当時200円だった。(笑)スキーはその当時で1万うん千円でしょう、若い人には相当高かった。 ボランティア探し 上杉:他のスポーツに比べると、スキーの場合は大分費用がかかりました。日本盲人マラソン協会が設立されて、ボランティアを探し始めて、走るなんていうのは一番気軽にお願いできるんだけれと、スキーの場合に来てくれというのは大変なことでした。私もスキー協会というのは他のボランティアとは違うんだという意識を強く持っていました。お願いするのにかなり大変でした。 藤田:最初の頃はボランティアを探すのに大変でしたね。 白崎:発足当時、顧問という肩書き付けられた人の中に、奉仕団のスキーで指導員をやってくれた人達が何人か入っていました。三井さん、金子さんは、たまたま僕と一緒にスキーパトロールの資格を取ったので、視覚障害者のことは全然分からなくても視覚障害者のスキーをきちんとやろうとした時、教えられる人が必要でスキーの専門家として協力してもらったわけです。 古畑:81年の「国障年」の頃は、日本がまだ余力を持って経済発展をしてた時代だったけど90年過ぎた頃から経済状態が悪くなってしまった。あの頃(発足当時)はまだ余力が有り、若いボランティアの人達は最初の頃はお金が大変だったけれど、世の中全体が良い雰囲気になってきた時代でした。 白崎:多少無理すれば、なんとかなるなという状況でした。 上杉:当事者中心の企画や運営をしていくと、ものすごく学ぶことが多く、お客さんという気持ちは弱かったです。自然に一人一人を分析してしまうので、当事者の中にはいるということは大きなメリットがありました。 白崎:それは晴眼者側にもいえます。誰かの為という考え方で企画して、色々意見を聞くけれど当事者側は「やってもらっている」という感覚での遠慮がちな意見しか出てこない。一緒になってやっていると、俺もこれだけのことをやるのだから、これだけのことはいわせて欲しいという意見が出てきて、晴眼者自身にもひと味違う勉強になりました。 上杉:86年は「障害基礎年金」ができた年で、障害者も経済保証が明確になり、ボランティアも経済成長の恩恵に預かり、お金の余裕が幸いしたのでしょう。 白崎:非常によいタイミングで社会全体の動きに乗ったのですね。 上杉:10周年を向かえられ、今まで継続できたという事は色々な良い条件が重なったんだと思われます。 チャレンジ精神 白崎:協会ができてすぐにバブルがはじけたような経済状態になっていたら、きつかったでしょうね。基本的なことに戻りますが、藤田さんの場合は見えてた時にスキーをやっていて、スキーの楽しさは体に染み込んでいた訳ですけど、上杉さんの場合は初めてですよね。何故、スキーをやる気持ちになったのですか。 上杉:私はもともと不健康だったのです。体重も多くて、高血圧、体型も良くなかった。若い頃は山登りとか、水泳はしていましたが、仕事を始めてから体調も悪くなり、目も悪くなりました。丁度その頃、女子マラソンが始まって、女子の方があんなに頑張れるのだったならば、体の弱い私にもできるのではないかと思い見よう見まねで始めてみたのです。そしたら次々出来るようになり、女子マラソンに影響されて盲人マラソンが花開き始めた頃でした。他の事もやってみようと、飛び込んでみたのがスキーだったのです。まだ、気も若かったし障害者のチャレンジ精神ということで参加してみたのですが。参加してみたら藤田さんの素晴らしさに圧倒されてのめり込んだのです。非常に居心地が良く、初めての事でも回数を重ねるごとにできるようになってきた。最初は何もできなかったですよ。板に乗っているだけでした。 白崎:私も良く知っていますよ最初の頃は、私も苦労しましたから。運動してたというベースがあったから上達が早かったのですよ。 上杉:私のそれからの人生の大きな原動力になりました。 藤田:初めて挑戦したことが成功したのですからね。 上杉:いつでも思いは湧いてきますから。 白崎:奉仕団の実行委員の間でも、意図的に協会を設立させようという意識が有り、それにたまたま奉仕団に参加していた障害者も、自分達も何かしなければいけないという気持ちが少しづつ浮き上がってきていた、そんな時に例の『中八』のこたつを囲んでの酒飲み話から現実になって・・・・ 障害者スポーツのシンボル 古畑:今、神奈川ではスキーがシンボルになってしまった訳だけれど、盲人卓球は盲家庭婦人にとっては最適です。おしゃべりだけでも参加の場になっている。日本でもスキーの大会を目指すのではなく、スキーを晴眼者とともに楽しむという、競技型からレクリエーション型になってきた。 上杉:障害者が一般の人に理解されていく方法はいろいろあります。スポーツは一般の人に親近感があります。自分達もやっているし、障害者もやればできるという姿を見て、援助や協力さえあれば障害者もなんでもできるという意識転換になる。障害者スポーツは一般の人に与える影響が大きい。スキーは危険で大変な事であり、障害者にできると思われていなかった。水泳などに比べると特異な存在だと思う。 白崎:最後に皆さんの夢をお聞きしたいと思います。全国に広げたいとか。 上杉:ノーマライゼーションという事で我々が一般の所に入っていきたいと思います。障害者運動会でなく、町内会の運動会に障害者が参加することで運営が変わり、健常者の参加の仕方も変わってくるでしょう。ノーマライゼーションの達成には我々が散らばって色々な所に入っていくことが大切だと思います。 藤田:楽しみたい、のんびりスキーを楽しみたいです。市民スキーにも。現に横浜市のレク協会は介護者さえいれば構わないといっています。協会会員と参加するのもいいかと思います。 他県へ広げたい 白崎:僕は、アメリカやヨーロッパの情報が欲しい。障害者スキーがどの程度市民権を得ているのか、障害者のプログラムの中でどういう位置づけをされているか。協会は大きくなった方がいいのか、このままの方がいいのか、むずかしい選択だと思います。大きくなると寂しい気がするし、このまま満足していては進歩がないし、他の県に広げるための準備をしたらいいと思う。そういう先鞭を付けられたらいいと思います。昭和40年に神奈川県点字図書館が出来て、キャンプを始めたときが、視覚障害者のためのボランティアの流れを大きく変えたときだと思う。キャンプは話し合って生活したり、一緒になって体を動かし、実行委員に障害者がどんどん参加した。 点字図書館『海老名館長』 古畑:それには海老名先生の影響があったんですよ。障害者にやらせろといってくれた。 藤田:危ないことばかり考えてしまって、事なかれ主義になってしまうでしょう。 白崎:海老名先生が現役を退いて、ライトセンターへ来た頃、スキーが丁度始まったんですよ。海老名先生はジャンプの選手だったんです。スキーをやりたいとおっしゃっていたんですが、本当に来るといわれたらどうしようかと思いました。 藤田:それでご理解もあったんですね。 古畑:海老名先生の影響は大きかったですね。 白崎:ボランティアにやりたいことをやらせてくれたという意味でね。 古畑:もう一つ、偶然の良いことは、「国障年」の頃、海老名先生の弟子が県の要職にあったんですよ。一番弟子の高木さんが課長だった。 白崎:話は尽きないのですが、この辺で終わりにしたいと思います。『中八旅館』から点字図書館の『海老名館長』の所まで話しが行って、納まりがつきました。こういうことができるのは神奈川の風土があるのかとも思いますが、それだけで終わらせてはいけない。広げていかなければいけないと思います。今日はお忙しいところ、どうもありがとうございました。 !11.0 《編集後記》                      35年前に誕生したかながわブラインドスキークラブ。この誕生秘話を、クラブの生みの親である藤田功三さんに語って頂いた事から、この冊子発行の運びとなりました。 「生みの苦しみ」ではなく、「雪が好き。スキーが好き」この原点に触れ、スキーの楽しさ、仲間がいる喜び、多くの事を教えて頂きました。  こうして成長してきたクラブも35歳。円熟したお年頃になってきたのではないでしょうか?これからさらに成長し、味わいのあるクラブとなるように…この一冊が会員の方々の「きずな」となる事を願っています。 最後に、冊子を発行するにあたり、原稿や資料、イラストの提供など多くの方々にご協力頂きました事、改めて御礼申し上げます。  長い編集作業を経てこの一冊が完成した事を、編集チーム一同今ほっとした気持ちで迎えております。                              2021年5月吉日    編集長 清宮幸子 <奥付> 書名:かながわブラインドスキークラブ35周年記念誌「声のきずな」 編集者名:かながわブラインドスキークラブ35周年記念誌チーム      井上浩一      射場眞行      太田充咲      志村好枝      清宮幸子 発行日:2021年6月 発行所住所:〒227-0043 横浜市青葉区藤が丘2-11-6 かながわブラインドスキークラブ事務局 URL: https://kanagawa-blindski.com/ Facebook: https://ja-jp.facebook.com/kanagawablindski/ YouTube: https://www.youtube.com/channel/UC9zXdO2DHFcGUVI2rtzwZMg E-Mail:club.info@kanagawa-blindski.com 印刷:株式会社イシダ印刷 【使ってみてね!】 かながわブラインドスキークラブ:インターネット関係QRコード一覧表 (テキストでは省略) <裏表紙裏面> YouTubeチラシ Photograph by Yusuke? 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